あなたたちに似ようとしたのは、人恋しくてたまらなかったから


■キリシマくんとハルナちゃん

(1)


 いつもどおりの放課後の、いつもどおりの公園の、いつもどおりの場所。
 毎日毎日飽きもせずに繰り返される日常の中に、これもまたいつも通りのキリシマの姿があった。
 キリシマはハルナより二つ年上の中学一年生で、無口で、無愛想で、いつ見かけてもフキゲンそうな顔をしている。
 その日の彼も、相変わらずむすっとした顔でベンチに座っていた。

「こんにちは、キリシマくん」

 ハルナが挨拶をしても、キリシマは返事など返さない。これもいつものことだった。
 面倒臭そうに顔を上げて、ふん、と馬鹿にしたみたいな溜息をついて、それでおしまい。
 あまりにもいつもどおりすぎて、ハルナは思わず吹き出しそうになってしまう。

「キリシマくんまたイジメられてたの?」

 そう尋ねるハルナに、キリシマは小さな声で「うん」と答えた。

「キリシマくんよくイジメられてるよね」
「そうだね」

 どうでもよさそうに答えるキリシマの鼻から、たらりと赤いものが流れ落ちた。
 よく見ると、顔のあちこちに赤かったり青かったり、実にカラフルな痣が出来ていた。
 痛そうだなあ。今でも充分痛いんだろうけど、明日の朝になったらもっと痛くなってるんだろうな。
 ちょっと同情してしまうけれど、うん、でも、これもいつもどおり。
 いつも通りの彼。いつも通りの自分。こういうのを難しい言葉でなんていうんだっけ。
 少しばかり考えてみたけれど、残念ながら答えは思い出せなかった。
 小さくかぶりを振って思考を切り替えて、ハルナは再びキリシマに話しかけた。

「ね、キリシマくん」
「なんだよ」

 心底鬱陶しそうな目線を向けてくる彼に、ハルナは笑顔で問いかける。

「ズボン履かないの? 向こうのゴミ箱に捨ててあったけど」
「…………」
「あとパンツはね、あそこの桜の木に引っ掛けてあるよ」
「……ああ、そう」

 疲れたみたいに溜息を吐くキリシマは、いじめられっ子だった。
 そしてハルナは、そんな"キリシマ君"のことが大好きなのだ。



「良かったねキリシマくん、わたし背が高くて。キリシマくん小さいからあの枝届かないもんね」

 何が楽しいのか知らないけれど、馬鹿みたいに明るい顔でへらへらと微笑みかけてくる。
 その面を見るたびに、どうにもムカついて仕方が無いのだけれど、しかしまあ、そんなことを考えたってそれこそ仕方が無い。それほど長い付き合いじゃないけれど、目の前のこいつが――ハルナと名乗る小学五年生の女の子が、そういうイキモノなのだ、という程度のことは理解できるようになった。いや、正確に言うなら、なってしまった。

「そうだね。ありがとう」

 本当は大してありがたいとも思っていないけど、それでも一応感謝の言葉を述べておく。
 きっと親の躾が良かったんだろうな、などと他人事のように考えるキリシマに、ハルナはさらに笑みを大きくした。

「うん。これでわたしキリシマくんに貸しイチだね」
「そうだね」

 どうでも良い。

「キリシマくんクールだね。あんなにひどいことされたのに泣いてないし」

 それもどうでも良い。

「泣いたってどうにもならない。あいつらはそれくらいじゃ止めてくれない。……それは君だってよく分かってるだろ?」
「そうだね。いくら泣いてもやめてくれないね。……ひどいね」

 言って、哀れみを含んだ目でこちらを見つめてくる。
 正直言って鬱陶しくてたまらない。この手の憐憫というやつが、キリシマにはひどく不愉快に感じられる。

「でもわたしだったらやっぱり泣いちゃうかな。キリシマくん、すっごく痛そうだもん」
「そうやって無様な姿を晒すから、余計にあいつらを喜ばせるんだ」
「そうなのかな」
「そうだよ」

 断定的に答えて会話を打ち切った。
 目の前の頭の軽い女が、また下らないことを言い出す前に、キリシマはほとんど喧嘩を売っているような口調で尋ねた。

「――それで?」
「え、なに? それでって?」
「さっきの貸しイチってヤツ。僕はどうやって君に借りを返せば良いんだ?」
「――ああ、うん。それなんだけどね」

 ほんの少しだけ躊躇ってみせた後、ハルナは恥ずかしげな声で言った。

「一緒にわたしのパンツ探してくれない?」

 その言葉に、キリシマは小さく嘆息した。

 結局、彼女の下着が見つかったのはとっぷりと日も暮れた午後6時ごろのことだった。下着は、公園の隅の隅、もう誰も存在を覚えていないような、公衆電話のボックスの中にあった。変色したぼろぼろの受話器に、ご丁寧にも固結びでくくりつけてあった。


(2)

 もはや夜と呼ぶしか無い時間帯。
 キリシマとハルナは、相も変わらず公園にいた。
 流石に冷え込んできたからか、二人そろってベンチに腰掛けて、そこいらの自販機で買った珈琲などを啜っている。特にフェミニストというわけでもないだろうが、それでも微かに良心を痛ませる何かがあったのだろう、キリシマは自分の学生服の上着を、ハルナの背にかけてやっていた。
 それほど長くない時間、二人はただ並んで座っているだけだった。
 遠くからは車の走り去る音。あるいはどこかで飼い犬らしきものの鳴く声。ごくまれに、風が枝葉を揺らす音がした。
 そんな静かな時間を打ち砕くように、

「イジメられるのは弱いからだ」

 キリシマが、小さくつぶやいた。
 断定口調で発せられたその言葉に、ハルナは小さく首を傾げて返した。

「キリシマくんは弱いの?」
「弱いよ」
「わたしも弱いからイジメられるの?」
「多分ね」
「でもきっと、わたしより弱い子とかいっぱいいるよ?」

 質問ばかりを投げかけてくる少女の様に、キリシマは蔑んだ一瞥を送る。
 そして、とても中学生とは思えない、悟りきったような表情で応えた。

「じゃあ君が気に入らないんだろ。その馬鹿みたいなしゃべり方とか、何にも考えてなさそうな顔とか、鈍くさい動きとかがむかつくんじゃないかな」
「……キリシマくん、意地悪言ってる?」
「別に。多分そうなんじゃないかって想像してるだけだ」
 
 そして、またしても静寂が訪れる。
 どこからか、誰かの笑い声が聞こえてきた。たぶん部活帰りの学生かなにかなのだろうけれど――その声が自分を笑っているように聞こえてしまうのは、やはり被害妄想というヤツなのだろうか。
 コイツの場合はどうなんだろうか、と、キリシマは隣に座る少女に視線を向けた。
 目が合った。相変わらず締まりのない表情で、ハルナはこちらを見つめていた。
 なにか適当な罵倒でもぶつけてやろうとキリシマが口を開くよりも先に、彼女は問いかけてくる。
 
「わたしって馬鹿みたい?」
「うん」
「わたしってなんにも考えてなさそう?」
「かなり」
「わたしって鈍くさい?」
「ものすごく」

 即答、即答、そして即答。
 気遣いなど欠片も感じられない即答の連続に、ハルナは、ひどいなあ、と笑った。

「キリシマくんって優しくないね」
「優しくないよ。周りも僕に優しくないから」

 風が冷たかった。

「キリシマくんって一人が好きだよね」
「好きだよ。静かだから」

 とても冷たかった。

「キリシマくんってわたしにひどい事ばかり言うよね」
「言うよ。君のことなんて大嫌いだから」

 珈琲はとうの昔に冷え切っていた。

「あ」

 とても、冷たかった。

「キリシマくん、もしかしてわたしの事馬鹿にした?」
「うん。思いきり」

 だから、だろう。

「キリシマくんは意地悪だなあ。そんなだからイジメられるんだよ?」
「知ってる。もう慣れた」
「自分が意地悪だってことに? それともイジメられることに?」
「両方」

 世界が、あまりにも冷たいので。

「ねえ、キリシマくん」
「なに」

 自分自身さえも、冷たく感じられてしまうので。

「えっちなことしよっか」
「嫌だ。一人でやってろ」

 そして、他人もまた冷たいので。

「キリシマくん」
「ん?」

 だからだろう。きっとそうだ。
 こんな冷たい言葉にさえ、かすかな温もりを感じてしまうほど、凍えているのだから。

「キリシマくんは意地悪で生意気で、しかも変わり者なんだね」
「意地悪と生意気は認める。でも変人かと問われれば返答に困る。――それで、僕のどこが変わってるって?」

 だから、全てをぶつけてみようと思った。
 嘘も本当もひっくるめて、今の自分を、ハルナという人間の全てをぶつけてみよう、と。

「だって、男の子ってえっちなこと好きでしょ?」
「みんながみんな、そうとは限らない」

 短く答える彼の横顔に、ハルナはからかうような視線を送った。
 適当に切り散らかした髪に、どうにも似合わないセルフレームの眼鏡。
 そこそこに整っているとは思える、だけど印象には残らない彫りの浅い顔つき。
 もう少し朗らかで、もう少し他人に優しくて、もう少し自分を抑える意志があったなら、人気者になることは有り得ないとしても、少なくともイジメなんかに遭うことはなかったのであろう少年の、その横顔。
 同じ場所で同じような目に遭う同類という点を除いて、なんの接点も無い彼の顔を、じっと見つめながら、ハルナは問いを重ねる。

「えー、そうかな? 1組のイセくんも、3組のナガトくんも、あとヤマシロ先生もミカサ先生も、わたしが『えっちなことしてください
』ってお願いしたら、みんな喜んでくれるよ?」

 自分自身を晒すことに抵抗がないわけじゃない。だけど、今まで散々惨めな姿を見られ、そして見ている間柄だ。これ以上知られて恥ずかしいことなんてそうは無いし……なにより、自分自身を不幸だと考えているであろう彼に、それ以上の不幸を見せ付けてあげることができたなら、それはきっとわたしのなかの何か――キリシマ風に言うなら、意味の無い優越感――を満たせるんじゃないか、と。
 ハルナはそんなことを考えていた。

「キリシマくんだけだよ、嫌だって言ったの」

 駄目押しとばかりに投げかけた言葉に、案の定キリシマは食いついてきた。
 気難しげに眉根を寄せて、今までに無く長い台詞を吐く。

「これはあくまでも単なる好奇心から尋ねることであって、別に君自身の貞操観念やら周囲の人間の行動規範やらに対して疑問を投げかける意図があるわけではないと前もって言っておくのだけど」
「キリシマくん、なに言ってるのか分かんないよ」
「うん、じゃあシンプルにいこう。……君は誰にでもそんなことを言うのか?」
「誰でもってわけじゃないよ。女の子にはこんなこと言わないもん」
「いや、君の性的嗜好について尋ねてるわけじゃない。……あー、その、なんだ。いいやもう。好きにしろ」
「変なキリシマくん」
「……ほんと、好きにしろ」

 あくまでも朗らかに言い切るハルナの様子に、キリシマはため息を吐くことしか出来ない。
 どうやら、この場の何もかもが面倒になったらしかった。
 そんな少年の横顔に、ハルナは囁きかけるような小さな声で、

「お父さんがね」

 ゆっくりと語り始めた。彼女の始まりを、そして終わりを。


(3)

「お父さんがね、わたしのお布団に入ってきたの。最初は部屋を間違えたのかなって思ってたんだけど、『ハルナ、ハルナ』ってずっと言ってるから、そうじゃないんだなって分かった」
「へえ」

 キリシマは空を見上げた。曇り空。星など見えはしなかった。

「いつもはわたしのことなんか全然ムシしてるみたいなのに、夜中にお布団に入ってくるなんてヘンだよね。だからわたし、聞いたんだ。『お父さん、どうしたの』って。そしたらお父さん、なんにも言わないでわたしのパジャマの中に手を」
「ふうん」

 手の中の珈琲は残り三分の一ほど。完全に冷め切ったそれを飲み干すべきか、それともこのまま捨ててしまうべきか。そんなくだらないことばかり頭に浮かんでくる。せっかく一ニ○円も――いや、隣でだんだん早口になりつつも話し続ける少女の分も合わせればニ四○円だ――払ったのに、捨ててしまうのはもったいない気もするが……ああ、でも不味いしなあ。最初からアイスで買った珈琲は別にそうでもないのに、なんでホットコーヒーは冷めるとこんなに不味くなるんだろう。

「手を入れてきて胸の辺りとかをずっと撫でて初めのうちはわたしが飼育小屋のウサギさんとかに触るときみたいに優しくしてくれてたんだけど段々だんだん乱暴になってきて先っちょとか引っ張られてわたしも『いたい』って言ったんだけどお父さん全然聞いてくれなくてはあはあはあはあ犬みたいな声出しながら無理やり私を自分の方に向かせてパジャマとかすごく乱暴に脱がされてあのパジャマお気に入りだったのにボタンとかいっぱい無くなっちゃってお父さん今度はわたしのをちゅーちゅー吸い出してそんなことしたっておっぱい出ないのにそれでもちゅーちゅーちゅーちゅー」
「なるほど」

 ちらりと目をやった先では、ハルナが――未だ初潮すらも訪れていないであろう少女が、自らの体を抱きしめるようにして震え続けていた。真正面に向けられたその瞳は、街灯の薄暗い光の下でさえもはっきりと分かるほど無秩序に揺れ続けている。医者に尋ねるまでもなく、誰の目にも危なげに見える姿だった。こういう場合は一一○と一一九、どちらを呼ぶのが正しいのだろうか、と。キリシマは見るに耐えない少女の姿から視線を逸らしながら考えた。

「くすぐったかったり痛かったりでわたしもう泣いちゃってたんだけどお父さん全然知らん顔で汗とかいっぱい出ててわたしより苦しそうで病気かなって心配しちゃってでもお父さんはお父さんだからやっぱり力はすごく強くて今度はわたしのおしっこの穴の方とかを指でパンツの上からぐりぐり触ってきてそれがすごく気持ち悪くてわたし泣きながら『お母さん助けて』って何度も呼んだんだけどお母さん全然来てくれなくて後で思い出したらお母さんってばそのときお隣のおばさんと一緒にどこかの温泉とかに遊びに行っててウチにはわたしとお父さんしかいなくてだから泣いても叫んでも誰も助けてくれなくてそんなことしてるうちにお父さんわたしから離れてくれて『ああ止めてくれたんだ』って思ったら今度は自分のズボンをガチャガチャ脱ぎ始めてなにしてるんだろうって思ってたらお××××お父さんお××××出してそれがすごく大きくて昔お風呂でみたのはもっと小さくてだらんとしてたのになんだか武器みたいに上向いてて怖くて怖くて怖いのにお父さん怖いのにそれをわたしの頬っぺたにぐいぐい押し付けてお父さん怖いのに怖い顔で怖い声でわたしに命令するの怖いのに舐め」

 ……今何時なんだろう。腕時計はしない主義だし、携帯電話はあいつらに一度奪われてあちこちに悪戯電話をかけられて以来持ち歩かないことにしている。さきほど見た公園内の時計では、確か午後七時は回っていたと思うのだけれど、さて、あれからどれだけの時間が経ったのだろうか。

「息が詰まって苦しいのにお父さんはぐいぐい腰を押し付けてきて顎が外れそうで痛くて痛くて吐きそうでだけどお父さんは髪の毛を引っ張って放してくれなくてずっとはあはあ言っててわたしよだれとかいっぱい出てきて汚いのに泣いてるのにもう嫌なのにお父さん何回も何回も喉に当たって吐きそうなのにひどいよねそのうちお父さんびくってなってそしたらお××××からどろどろしたのが出てきていっぱい出てきてわたし息も出来ないのにそんなの口の中に出されちゃって苦しくて仕方ないから泣きながら飲み込んでそしたらお父さんやっとお××××口から抜いてくれてわたしげほげほ咳して涙とか鼻水とかよだれとかあとお父さんのどろどろとかあれってセーエキっていうんだよねカガ先生が教えてくれたよそんなのがいっぱい出ててばっちくて悲しくてなんにも考えられなくってとにかくもう嫌だったのにまたお父さんがくっついてきてわたし暴れてるのにもう嫌なのに嫌なのに泣いてるのに謝ってるのにお父さん離してくれなくてお父さんくっついてきてわたしの足とか掴んで無理やり広げてもうやめて嫌なのにごめんなさいって言ってるのにお父さんわたしのおしっこの穴にお××××を」
「…………」

 もはや言葉も無かった。気の利いた相槌は打ち止め。あとは適当にうなずく程度のことしか出来ない。
 少女はすでに自分が何を言っているのかさえも分からないような有様で、ただただ同じような言葉を何度も何度も繰り返すのみだった。

「痛いのに痛いのに痛いのにひどいよごめんなさいごめんなさいって言ってるのに泣いてるのにごめんなさい痛いのに苦しくてお腹とか痛いのにお父さんひどい痛いよごめんなさいもうしませんごめんなさいなのにお父さんずっと動いて絶対血とか出てるのに怪我してるのにわたし良い子にしますからごめんなさいひどいよお父さん抜いて早く抜いて痛いのに――!!」

 金切り声を張り上げ、ハルナはどこかの誰かに向かって叫んだ。
 そして、伸びきっていた背中を不意に丸め、顔を俯かせて地面に言葉を落す。
 ぽつりと。

「…………痛い、のに」
「あ、そう」

 やっと終わったか。そんな安堵が窺える口調で、キリシマは言った。
 ぴたり、と。
 ハルナの体の震えが、痙攣する口元が、定まらない視点が、一瞬にして停止した。
 まるで電源でも落されたかのようなその様子に、キリシマは思わず苦笑を漏らしてしまう。
 小学生。どれだけ辛い経験をしていようと、けっきょくは小学生。
 つまりはそういうことなのだと思う。 
 気の無い彼のその様子に、ハルナは微かに非難の色が混じる声音で問う。

「キリシマくん、わたしの話聞いてた?」
「うん。それなりに」

 どこまでも面倒臭げな返事。
 横目に睨みつけたその先では、少年が欠伸をかみ殺していた。
 しばし呆然した表情でその様を見つめ続けていたハルナの顔が、ゆっくりと崩れる。
 狂気のカタチに、ではなかった。
 ごく普通の、そこいらで同年代の友達と一緒に走り回っているような、年相応の女の子のカタチに、だ。
 ハルナは再び語り始めた。
 面白い冗談を教えてやっているような、そんな顔つきで。

「……それでね、わたしは痛くて嫌なんだけど、アレをするとお父さんすごく喜んでくれるから、最初は苦しいのかなって思ってたんだけど聞いてみたら『気持ちよかったよ』って言ってくれたから、ああ喜んでくれてるんだなって思って。お父さん気持ち良いことするとその後はすごく優しくなるから、だから他の男の人も気持ち良くなったら、わたしが気持ち良くしてあげたら優しくしてくれるかなって。それでね、カガ先生はいつもわたしに意地悪言うから気持ち良くしてあげたらもうそんなの言わないだろうから聞いてみたの。最初はすごく怒ってたけどあとで教室に呼ばれてね、また怒られるのかと思ったら先生、『本当にして良いのか』って言ってくれて、わたしも優しくして欲しいから怒られたくないから『はい』って答えたの」

 あまりにも生々しい台詞たち。しかし少女の顔つきからは先ほどの狂気の片鱗さえも窺えはしなかった。
 まるで全てが性質の悪い嘘っぱちであるかのような、あるいはなにもかもがどうでもいいかのような、そんなさばさばとした態度だった。

「先生、優しくなったよ。しばらくしたらまた意地悪言うようになったけど、舐めてあげたらまた優しくしてくれるようになるから。だか
ら良いの。他の男の子はあんまり優しくならないけど、でもずっと気持ち良くしてあげてたらきっとそのうち優しくなるよね。えっちなことしてあげると、みんな優しくしてくれるんだよね?」

 最後に、かすかな願いを込めるように。少女は穏やかに締めの言葉を吐いた。

「……だからね、キリシマくんもえっちなことしようよ。わたし、キリシマくんに優しくしてほしいよ」

 そして、応えはどこまでも鮮明だった。

「嫌だ。一人でやってろ」

 明確な拒否。くだらない倫理観による否定でも、肉欲に浸りきった肯定でもない。同情も憐憫も嫌悪も嘲笑もない、ただただ単純明快な、それ以外の何者をも含まない、拒否だった。嫌だから、やらない。ただそれだけ。
 それだけなのに、拒まれたのに、きっと嫌われてさえいるのに。
 なのに何故か、嬉しかった。
 嬉しかったから、思わず言葉が漏れた。たぶん、かすかに震えた声音だったと思う。

「キリシマくんは優しくないなあ」
「優しくないよ。私ってすごく可哀相、私ってすごく健気。だから構って許して愛してください――そんな甘ったれた台詞吐く人間には特に優しくない」

 そう、こんなのって馬鹿げてる。少女の尋常でない言動が事実であるのか演技であるのか、そんなことはハナからどうでも良いことだった。そのどちらであろうと彼は同じような反応しか返すことは出来なかっただろうし、たとえ他の行動――たとえば優しげな口調で彼女に「辛かったね、だけどもう大丈夫だよ」と囁きかけるような――を取ることが出来る能力を持っていたとしても、決してそんな道を選択しなかったであろうと断言できた。
 そういった意味では、キリシマは心底冷たい人間だった。ハルナがたびたび言うように、あまりにも冷酷な人間だった。そしてなにより――どこまでも、この少女を嫌い尽くしていた。

「キリシマくんは酷いなあ」

 嬉しそうにハルナは笑う。
 忌々しげにキリシマは眉をしかめる。

「酷いよ。君みたいに他人他人他人って喚き散らしてるくせに結局は自分のことしか考えてない人間には特に。自分が大切ならそう言えば良いんだ、正直に。そういう人間は嫌いじゃない。あ、つまり君なんて大嫌いってことなんだけどね」

 どこまでも明朗に響くその言葉に、ハルナは苦笑で返すことしか出来ない。
 仇を睨むような目で空を見上げる少年の横顔に、彼女はゆっくりと尋ねた。
 まるで恋を語るような、幼いと形容しても問題ないであろう少女には、全く似つかわしくない口調で。

「優しくなくて、わたしのことなんて大嫌いなのに、なんでキリシマくんは一緒にいてくれるの?」
「安心するから」
「なんで?」
「下には下がいるんだって思える。世の中にはどうしようもなく馬鹿でどうしようもなく惨めでどうしようもなく滑稽な、他人に嘲笑されて罵倒されるためだけに存在するとしか思えない最低最悪の人間もいるんだって実感できる。これってすごく安心できることなんだよ。生きることに疲れたら下を見れば良いんだから。ああ、あんなゴミクズでも生きることが許されてるんだ、じゃあアレよりはいくらかマシな僕だって生きてて良いよね、ってね。そう思わせてくれるだけ、君の存在は有り難いよ」
「キリシマ君って難しい言葉知ってるね」
「そうかな」

 つまらなさげに応える姿に、とうとうハルナは吹き出してしまう。
 こんな返答をする人間なんて、彼以外には知らなかった。
 まともな相手ならば同情を示し、彼女を慰め、そして最終的には見てみぬふりをする。
 あまりまともでない相手なら――彼女を性欲のはけ口として認識する。
 反応の大小はあれど、結局はそのどちらかだった。
 ……目の前の、イジメられっ子の少年以外は。
 変わっていた。変態ではないが変人だった。
 そしてハルナは、目の前の奇矯な中学生を嫌いにはなれていなかった。
 だから、彼女は言う。
 冗談交じりに、しかし、どこまでも真剣な色を瞳に浮かべて。

「ねえ、一緒に死のっか」

 答えはただの一言。

「嫌だ。一人で死ね」

 しばしの静寂。そして微かに漏れる少女の笑い声。
 ハルナは続けて言う。

「ねえ、じゃあ結婚しよっか」

 またしても即答。

「嫌だ。一人でしろ」

 もう我慢できそうもなかった。
 半ば笑い声と化した、どこまでも明るい声色で、ハルナはからかうような言葉を返す。

「出来ないよ?」
「知ってる」

 爆発した。
 澄ました少年の横顔にツバが吹きかかるほど盛大に。
 ハルナは生まれて初めてとさえ思えるくらいの大爆笑をぶつけてやった。


(4)

「ねえ、キリシマくんはどうしたいの?」
「どうもしたくない。このまま生きて、死ねれば良い」
「イジメられながら?」
「別にそれでも構わない。あいつらごときに僕の何を変えられるはずもない」
「キリシマくんは強いね」
「そういう君は馬鹿だな。さっき言ったことをもう忘れてる」
「なんて言ったっけ」
「弱いからイジメられる、だよ」
「ああ、そっか。でもキリシマくんは強いよね? ……あれ?」

 言葉の矛盾に気づいたのだろう。
 ハルナは首を傾げて考え込んだ。
 ばかばかしいとばかりに鼻で笑い飛ばすキリシマに、しかし、ハルナは正しい問いを導き出せた生徒特有の、どこか誇らしげな表情でもって言葉を投げる。

「うん、じゃあ……キリシマくんは、強くて弱いよね」
「意味が分からない」
「良いよ別に。わたしはなんとなく分かるから」
「電波だな」
「あ、また馬鹿にした」





「ねえ、キリシマくん」
「なんだよ」
「わたしはどうしたらいいのかな?」
「自分で決めろよ。鬱陶しい」

「ええとね、じゃあね。キリシマくんは、わたしにどうしてほしい? わたしなんていなくなった方がいい? 死んじゃえ馬鹿とか思ってる?」

 その通りだ、とは答えられなかった。確かにキリシマはハルナのことを嫌っていた。骨の髄まで嫌い切っていた。しかし、いや、だからこそ――彼には、彼女が必要だった。ベクトルの正負はともかくとして、彼女に強い想いを抱いていることだけは確かだった。少なくとも、ハルナを虐げている連中よりはよほど彼女を必要としていた。だけど、それを口にするのは色々な意味合いにおいて、あまりにも恥ずかしすぎて。

「君は、ずっとここにいればいい」

 だから、ぶっきらぼうにも言えず、かといって優しげに言うことなんてもちろん出来ず。
 結局、棒読みに近い口調でこんな言葉が漏れただけだった。
 そんな彼の苦悩をよそに、ハルナは困惑した色を顔に浮かべた。

「……イジメられるのに?」
「ああ」
「馬鹿みたいなのに? 鈍くさいのに? みんなにえっちなことしてもらってる変態さんなのに?」
「ああ」
「……なんで?」

 窺うような目で自分を見る少女に、キリシマは小さく――だけど、二度とは言いたくないといわんばかりにはっきりと――言う。

「それもさっき言った。君がいると、僕が安心できる」

 他の場所で他の人間に言われたならば、愛の告白と勘違いしてしまいかねない言葉だった。
 そして、この場所でこんな人間に言われてさえも、そう勘違いしようと決断している少女が彼の目の前にいた。
 少女は、花咲くような微笑で彼の言葉に応じた。

「自分勝手だね、キリシマくんは」
「よく言われる。自分でもそう思う」

 嬉しかった。嫌いだとしても、憎んでいるとしても、そして自分で自分を騙すだけの拙い嘘だとしても。
 ただ単純に自分を必要としてくれている人がいるだけで、心から喜ぶことが出来た。
 ハルナは子供だった。確かに子供だった。だからこそ、この程度で喜ぶことが出来た。この程度で自分を騙すことが出来た。
 そして、キリシマもまた幼かった。だからこそ――ハルナが必要だった。必要だと思い込んでいた。

「ねえ、キリシマくん」
「ん」
「やっぱり結婚しようよ」
「嫌だ、一人でしろ」
「……だから一人じゃ出来ないよ」
「知ってる」

 笑いながら、ハルナはそっと少年の手を握った。
 残念ながらその手はひどく冷たくて、優しさの欠片さえも感じられなかったけれど。
 それでも、楽しくて、可笑しくて、信じられないことに微かに幸せさえ感じられて。


 ああ、どうにも最低で最悪なことだけれど。
 この少年の隣でなら、生きていけるかもしれない、と。
 そんな見当違いも甚だしい、妄想以外の何者でもない誤解を、だけど、それを真実として受け入れて良いと断言してしまえるくらいに愉快な勘違いを、ハルナは小さなその身体の内に、そっと抱え込むことにした。
 問題ない。全てが全て嘘だとしても、この少年はきっと自分自身とやらを演じ続けるのだろうから。

 だから、わたしも演じれば良い。
 彼に救われる少女という役柄を、最期の最後まで。


 愛するように強く、そう思った。






 少年は、空を見ていた。
 大嫌いな少女と手を繋いで、空を見ていた。




















 大嫌いだと信じて、演じて、空を見ていた。




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