あなたたちに似ようとしたのは、人恋しくてたまらなかったから


■便器は嗤う

 私は大変に困っていた。
 と、いうのも、もうすでに8月も下旬に入り、そろそろ新学期の準備でも始めようか、という時期であるにも関わらず、全くもって夏休みの宿題というものが出来ておらんのだ。出来ていないどころか、お恥ずかしいことに、それに手をつけよう、終わらせそうとした事実さえ存在しない。これでは終わらなくて当然である。いやはや困った。
 しかし、少しばかり冷静になって考えてみれば、私は実は、全くもって困ってなどいないのかも知れぬ。
 思えば、私は小学校に入学してから高校3年の現在に至るまで、夏休みの宿題というものを、全て八月三一日のただ一日のみで終わらしてきたのだ。もちろん、友人の手を借りたことも多々あるし、テキストの最後のページにある解答を、丸写しにしたこともある。 だが、夏休みの宿題というのは、所詮は教師が生徒に対して行う嫌がらせであり、決して勉学に励むためのものなどでは無いのだから、それでも良いのである。
 私は自分がちっとも困っておらぬ事に安心した。そして、それと同時に尿意を覚えた。そういえば、朝方から小便を我慢していたのだった。尿意というものは、一度思い出すと際限無くその存在を主張し始めるものだ。私はもはや辛抱する必要も有るまいと、駆け足で便所へと向かった。
 扉を開け、中へ入った。相変わらず、嫌な匂いのする部屋である。
 さて用を足そうと、ふと便器を見ると、蓋が下りているではないか。普段このような事は無い。蓋は上がり、便座とともに静かに眠っているのが常である。私は不審に思いながらも、蓋を開いた。
 するとどうだろう。女の子が、便器の中から顔を出しているではないか。それも、おかっぱ頭の、大変愛らしい女の子が。
 私は仰天し、言葉を失ってしまった。その際に少しばかり漏らしてしまったのは、私と貴方だけの秘密である。
 そんな私の様子を見て、少女は可笑しそうにころころと笑ってみせ、そして、顔と同様に大変愛らしい声で、
「こんにちは」
 と、言った。
 私はというと、あんまりといえばあんまりな出来事に、気の利いた返事を返すことなど出来なかった。
 それにしても、と私は思う。
 どうして便器の中なのだ。
 どうして玄関や、座敷や、台所や、縁側に現れてくれないのだ。
 便器の中などに居座られては、私が用を足せないではないか。まさかこの愛らしい少女に小水を浴びせかけるなどという、極めて悪趣味なことが、私に出来よう筈もない。
 私は困り果ててしまった。
 私のそんな様子を見ても、少女は鈴のような声で笑うのみである。
 仕方無く、私は元の様に便器に蓋をして、自室へと引き上げる事にした。しばらくすれば、あの少女も帰っていくであろう。小便など、我慢しようと思えば我慢できるものである。幸か不幸か、先ほど少し漏らしてしまっていったおかげで、まだ当分は保ちそうであった。 そうした次第で、私は自室へと帰り、雑誌などを読んでいた。夏の昼間、外は大変に暑いでのあろうが、幸いにも私の部屋にはクーラーという文明の利器がある。
 室内は、さながら春の日の昼下がりのような過ごし易さであった。
 しかし、そのクーラーがいけなかった。それを使用した所為で、どうやら私は腹を冷やしてしまったようなのだ。急に便意を催し、私は大層慌てた。なんとか我慢しようとも思ったのだが、とてもではないが長時間耐えられるものではない。それどころか、一時は引いていた尿意の波までが、再び私に襲いかかってきたのだ。事態はさながら四面楚歌である。 だが、私は便所に走るわけにはいかなかった。
 あそこには、あの愛らしい少女がいるのだ。
 彼女がいる限り、私は我慢し続けねばならない。
 と、私が自らとの闘いに心血を注いでいる内に、いつの間にか、兄が私の部屋へと入ってきていた。
「どうしたい、青い顔をして」
 と、兄は私に問う。
「なんでもない。どこぞへ消えてしまえ」
 と、欠片の余裕さえも持たぬ私は、苛々とした口調で答えを返した。
 兄はその返事に不満を覚えたらしく、なにかしきりに文句を言っていたようである。というのも、既に私と便意尿意の闘いは佳境に入っており、とてもでは無いが兄なぞの話しを聞いている余力はなかったのだ。
 兄は私のその様子を反抗の証と取り、腹を立て、部屋を出ていこうとする。そのことは、別に問題では無かった。問題は、兄が、
「便所へ行く」
 などと言い出したことだ。 私は大層焦り、しきりに止めたが、かの男は聞く耳を持たなかった。兄は五月蝿い、と私を一喝すると、本当に便所へと行ってしまったのだ。私は絶望のあまり、その場に崩れ落ちた。
 ああ、もうお仕舞いだ。
 あの愛らしい少女は、兄の小便だか大便だかを顔に浴びせられ、無茶苦茶に汚れてしまうだろう。私は、その光景を思い浮かべるだけで、自身がその極めて悪質な屈辱を受けているような、大変憤った気分になった。
 おのれ、兄め。この恨み晴らさでおくべきか。
 私は、親を殺されたがごとき心境を持って、便所へと走った。丁度そこには、用を足し終えたのであろう、実に晴れ晴れとした表情の兄が立っているではないか。私は益々腹を立て、出会い頭に兄に殴りかかった。
 私のあまりの有様に、兄も恐怖を感じたのであろう。
「なんだ、どうしたのだ」
 などと、潰れた蛙のような声で悲鳴を上げた。
「だまれ! よくもあの子に便など浴びせたな!」
 もはや、私を止められるものなどいなかった。えいや、とばかりに、兄の頭をしこたま殴ってやった。それに対し、兄は何の事だかさっぱり分からんと、とうとう泣きを入れた。分からんことは有るまい、便器の中の愛らしい少女の事だよ、と、私は、少しばかり冷静になった頭を持って、兄に告げる。その時の兄の顔こそ見物だった。兄は、私を見て、とうとう気が狂ったか、と叫んだ。
 もちろん私は狂ってなどおらぬ。私は愛らしいあの少女がどうなったか大変気になり、便器の中を覗き見た。
 だがそこには、あの少女はいなかった。
 やや曇った光沢を放つ便器の底が、私を嘲笑する。
 私は大層驚き、兄に、あの少女はどうした、と聞いたが、兄は哀れむような眼差しでこちらを見つめるだけで、何も答えてはくれない。私は呆然となり、そのまま兄の方へと倒れこんでしまった。

 暑い夏の昼下がり、狭い便所で、男二人と空っぽの便器が寄り添う姿は、まるでキテレツな喜劇のようだった。


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