あなたたちに似ようとしたのは、人恋しくてたまらなかったから


■see you

 カラン、とベルが鳴り響き、志野村恵美は顔を上げる。
 ガラス張りの扉を開けて、狭い店内へ入ってきたのは、もちろん『彼』では無くて――。
「なんだ、大山さんか」
「なんだ、ってお前なあ。俺、客よ? オキャクサマ」
「珈琲一杯で三時間居座るような野郎は、客として認めてないのよね、わたし」
 そーいうのはファミレスとかでやってよね、と、ため息混じりに言いながら、恵美は読みかけの小説に視線を戻す。
 一昨日に古本屋で衝動買いした、よくあるパターンの恋愛小説だ。
 恋に落ちた男女が、別れ、再会し、また別れ、そしてまた出会う。もちろん最後はハッピーエンド。
「何読んでんだ?」
 勝手知ったるなんとやら。慣れた動作でいつもの席に腰を下ろした大山が、カウンター越しに問いかける。
「小説」
「いや、そーじゃなくて」
「恋愛小説」
「ふーん」
 そこから会話が続かない。
 恵美は再び読書に戻り、大山はゆっくりと回るシーリングファンを見上げる。このお化け扇風機にはなんの意味があるのだろうか、などと考えながら。
 そのまま静かに時間が過ぎて。
 大山が入ってきたころにはまだ高いところにあった太陽が、ビルの谷間に隠れようとする頃になって、彼は思い出したように口を開く。
「あのさ」
「なに?」
 恵美の手の中の小説もそろそろ終盤。一番の盛り上がりどころに差し掛かっていた。
 ちらりとも視線を上げないで、邪険に問う。
 大山もまた、天井を見上げたまま、
「俺、まだなんも注文してないんだけど」
「……あ」

****

 喫茶『CU』は、五年ほど前に恵美の父が開いた店だ。一昨年、その父が心不全で亡くなって以来、恵美が一人で切り盛りしている。 
 とはいっても、一日に両手で数えられるほどの客しか来ないような店なのだから、ぼんやり本を読むか、あるいは居眠りをするくらいしかやることがないのが現状なのだが。
 ――こんなに愛らしい看板娘がいるってのにね。
 インスタントコーヒーの粉を適当にカップに流し込みながら、心中で毒づく。
 ちなみに、コーヒーのサイフォンなんて、ここ一年ほど使われたことがなかった。
「なあ」
「なによ」
「普通さ、客の前であからさまにそーゆーことやるか?」
「そーゆーことって?」
「いや、その、インスタント」
「ああ、これ。別に良いじゃない。コーヒーの味なんて分かんないんでしょ? どうせ」
 電気ポットから直接お湯を注ぎ込み、角砂糖を放り込んで、はい出来上がり。
 あとはカウンターに置くだけ。
「はい、どうぞ」
「……ま、良いけどな」
 差し出されたコーヒーを、諦め混じりの動作で受け取りながら、大山は嘆息する。
 一口含んで、インスタント特有の味わいを――かなり好意的な表現だが――楽しみながら、独り言のように言う。
「なあ」
「なによ」
 もう少しで読み終わるからちょっと待って、と続ける恵美を遮って、大山は言葉を継ぐ。
「誰か、待ってるのか」
 返事は無い。ただ、驚きに目を見開いて、慌ててこちらを向く恵美の顔が答えを物語っていた。
「当たり、か」
「……なにそれ、探偵の勘ってヤツ?」
 冷静な風を装ってはいるものの、恵美の声は普段より一オクターブ高い。誰の目から見ても、動揺しているのは明らかだった。
「うん、まあ、そんなもんかな」
「根拠とか、あったりする?」
「ひとつ。お前、誰もいない時って、ずっとカウンターの隅の席を見てるだろ。そこになんか思い出があるんじゃないか?」
「…………」
 恵美は答えない。
 その様子を、大して面白くもなさそうに見つめながら、大山はまた一口コーヒーをすすり、続ける。
「ふたつ。俺が入ってくると、いっつも落胆した顔をする。ハズレを掴まされたみたいにな」
「だって大山さんってハズレじゃん。どー考えても」
「さりげなく非道いこと言うなよ。――俺以外の客でも一緒なんだろ? 入ってくるなり店員にがっかりした顔されて、しかもインスタントコーヒーなんて飲まされた日にゃあ、もう二度と来たくなくなるわな。この店」
「うっさいわね」
 言い捨てながら、恵美は拗ねたように横を向く。
 その白い横顔を追いかけて、大山の言葉は続く。
「みっつ。こないだ俺が来たとき、お前居眠りしてたよな。カウンターにだらしなく寝そべって、よだれ垂らして」
 その時の恵美を真似て、大袈裟な仕草で突っ伏してみせる。
 恵美は赤面。結構恥ずかしい記憶らしい。
「そん時な、寝言を聞いちまったんだよ。なんだったっけ、確か『ヨウヘイ』だったっけか――」
 そこまで言って、大山は不意に口を閉じた。ゆっくりと起きあがって、何故だか姿勢を正す。
 恵美の目から、突然見慣れないものが流れ落ちた。
 涙。
 次々にこぼれだすそれを拭おうともせず、恵美はただ、怒ったような表情で、大山を睨み付ける。
「――なによ」
 その始まりは、ぽつりとした呟きだった。そう、巨大なダムに穿たれた、ほんの小さな穴のような。
 だがそれでも、穴が開いた以上、ダムは必ず崩れるのだ。
 どれだけ堪えようと。
「え?」
「なによ、鬼の首取ったみたいに講釈ぶって! 探偵ってそんなに偉いの? 他人様の知られたくない心(ところ)ほじくり返して、なにが楽しいのよっ」
「あ、いや、その」
「帰ってよ!」
「あ、ああ。んじゃ、お代――」
「いらないわよ! さっさと帰って!」
 叫び声に気圧されるようにして、大山は店を出た。「また来るよ」なんて、言える雰囲気ではなかった。
 そして、一人。
 誰もいなくなった店内で、恵美はただただ立ち尽くし、涙を流す。
 決壊したダムが修復されるには、しばらく時間がかかりそうだった。

****

 九条陽平はバカだった。
 少なくとも、恵美の知る人間の中では二番目に大馬鹿者だった。
 十九歳にもなって、女の子のスカートをめくって歩いたり、
 ピンポンダッシュに興じてみたり、
 近所の小学生と一緒になって、河原に秘密基地を作ってみたり、
 カウンターの隅の席に座って、大して好きでもないコーヒーを、一度に十二杯も飲んだり。

 そして、道路に飛び出した子供を連れ戻そうとして、車に轢かれて死んでみたり。

 まさしく、馬鹿としか形容の出来ない人物だった。
 ただ、そんな陽平よりももっと馬鹿なのは、
「そんな馬鹿に惚れちゃってた私よねー」
 夕暮れの色に染まる店内で、恵美は一人呟いた。
 誰も聞く者はいない。自分自身の他には。
 だらりとカウンターに寝そべっていた体を起こし、大山が出ていった扉を見る。
「悪いことしちゃったかな……」
 何も喚くことは無かった。にっこり微笑みながら、「やめて」。そう言うだけで、大山はもうなにも言わなかっただろう。子供っぽいところのある彼も、そういうところではしっかりと『社会人』していた。
 つまりは、自分が大人げなかったということか。
 なんとなく認めたくない結論にぶち当たって、恵美は大きなため息を漏らした。
 ――しゃあない、今度来たら、珈琲の一杯でもおごってやるか。
 インスタントだけどね、と。そんな事を考えて、ふと、彼がいつもの「また来るよ」という台詞を吐かなかったことに気づく。
「まさかもう来ないなんてこと、無いよね」
 口に出して、呟く。
 断言は出来なかった。所詮は客であり、店員だった。そんな、指で弾けば簡単に壊れそうな関係であったにも関わらず、知らず知らずの内に、大山に依存していた自分に驚く。確かに、ほとんど誰も来ない喫茶店の中、唯一の常連客である彼の存在は大きかった――金銭的にも、心理的にも。
 それだけ、かな?
 違うような気がする。もっとなにか、店とは切り離した、自分自身との関わりがあるような――。
「まさかこれって……恋?」
 一瞬の間。
 歩みの早い天使が通り過ぎたのち、恵美は爆笑した。そりゃあもう、腹がよじれるくらいに。

****

 大山信治は、店内に戻るチャンスを、いまいち掴めないでいた。
 今戻ったらまた怒鳴られないだろうか、とか、
 無視されたらどうしよう、とか、
 さっきまでは泣いてたくせに、なんで突然笑い出すんだ。気味悪いぞ、とか。
 様々な思いが、彼の足を引き留めていた。
 と。
「ん?」
 突然、笑い声が止んだ。
 何事だろうかと、生け垣の陰から店内をのぞき込む。ガラス張りの扉と壁は、こんな時に便利だ。
「――あぅ」
 奇怪な音が、喉から漏れた。
 覗き込んだ大山の視線と、たまたま外に目をやった恵美の視線が、もろにぶつかったのだ。
 そしてあろうことか、店内の恵美は大山に向かって、
 苦く微笑んだ。
「ええと……」
 その表情に同じような苦い笑みを送り返しながら、とりあえず大山は、
 ――観念します、お奉行さま。
 謝る覚悟を決めて、再び『CU』の扉をくぐった。

****

「いらっしゃい」
 気まずそうな笑顔を顔に張り付かせて入ってきた大山に向かい、声が飛ぶ。
「あー、その、なんだ」
 いつもの席に座りながら、むにゃむにゃと口ごもる。
 なんとなく、ちゃんとした言葉が出てこない。
 謝ろうという気持ちはあるのだが、それよりも強い、ある感情が大山の心にわき上がってきていた。
 それは好奇心と、大山自身にも理解できない感情の入り交じった、何か。
「なあ」
「なに?」
 対する恵美は真顔だ。何故か、怖い。
 一瞬ひるんだ大山だが、なんとか堪え、真剣な顔を作って尋ねる。
「そのヨウヘイって奴は、また来るのか?」
「――何でそんなこと聞くの?」
 その問い返しには答えず、
「もう来ないんだろ? そうだって知ってるんだろ?」
 何度目かの沈黙が、二人を包む。
 恵美がまた泣き出したりしないか、少し心配だった。
 それでも、聞きたかった。何故だかは分からないが。
「……来ないわよ。来られないの」
 やがて、恵美が口を開いた。その表情は硬いが、しかし、涙を堪えているような性質のものではない。
 ――自供する直前の犯人みたいな顔だな、などと。心の中だけで、かなり不謹慎な感想を抱く。
 そして、また沈黙。
 時の歩みは遅くなり、世界は気まずい色に染まる。
 この状況でなにかをしゃべり始めるには、それなりの勇気が必要だろう。
 ――だけど。
 それでも大山は口を開かなければならなかった。
 それは彼が自分自身に課した義務であり、そして、目の前でうつむく少女に対しての思いやりでもあった。
 ――自分でやったことの責任は、自分でとらなきゃな。
「なあ」
「……うん」
「もし、もしも、な」
「うん」
「俺がその、カウンターの隅の席に座ってコーヒーを飲みたいって言ったら、どうする?」
「……意味がよく分からないんだけど」
「じゃあ、俺が、その、あの、アレだ」
「はっきり言いなさいよ」
 眉根を寄せて、恵美が言う。
 その言葉に腹が立ったという気持ちもあるし、逆に、励まされたという思いもある。
 どちらにせよ、大山は、二十四年の人生の中で初めて口にする言葉を、無理矢理吐き出そうとしていた。
「俺がっ!」
「うわあっ! ちょっ、急に大声出さないでよ」
「俺が、その、ヨウヘイくんの代わりになってやるっていったら、どうする?」
 言ってしまってから、少し後悔する。
 自分はなんで、こんな台詞を吐いてしまったんだろう、と。
 だが、もう遅い。
 大山の言葉に目を丸くしていた恵美が、ゆっくりと瞳を閉じて、そして、
「爆笑する」
「へ?」
「大山さんがそんな事言ったら、多分わたし、死ヌほど笑うと思う」
「ああ、そうかぁ……って、おい! 人が真面目に――」
「だから、ね」
 閉じられていた瞳が開き、大山を見つめる。今まで意識して見たことの無かった彼女の瞳は、鳶色に輝いていた。
「そんなこと言わないでよ。誰かの代わりになるとか、そんなの」
 言いながら、恵美は微笑む。
 女神の微笑などではない、普通の少女の、普通の微笑み。
 何故だかそれが妙に眩しくて、
「分かった。もう言わないから、だから」
「だから?」
「珈琲、一杯おごれ」
「なんじゃそら」
 結局、茶化しながら目を逸らすことしか出来ない。
 そんな自分がたまらなく可笑しかった。

****

 目の前で微笑む大山を見て、恵美は自分が『それだけじゃない』と思った理由を知った。
 それは多分、大山の笑顔が――。
「大山さんってさ」「
「ん?」
「笑うと、オランウータンに似てるよね」
「やかましい」
 笑顔があまりにも優しくて、引き込まれそうだから。だなんて、言えるわけが無かった。
 そんな自分が何故か可笑しくて、恵美は一人でくすくすと笑いながら、
 『彼』がいなくなってから、一度も使っていなかったサイフォンに触れた。
 インスタントでないコーヒーを入れるために。
 今日からは、なんとなくそうしても良いような気がしたから。




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