■恋は手さぐり
吹きさらしの校舎裏、びゅんびゅんと音を立てて木枯らしが通り過ぎてゆくその場所で、彼はひとり立ち尽くしていた。
背中を丸めて肘を抱くその姿は明らかに凍えきっていて、見ているこっちまで歯が鳴りそうなくらいだ。
――うわあ、寒そー。
小声でつぶやきながら、わたしは凍死一歩寸前といった様子の人影に近づいていった。
歩み寄るにつれて、彼の唇が真っ青に染まっていることに気づく。
馬鹿かこいつは。内心で誰にともなく罵ると同時、彼がこちらの姿に気づいた。
一瞬だけ輝いた彼の笑顔は、だけど、すぐさま落胆の色に覆い隠されてしまう。
あからさまに失礼な態度だった。普段のわたしなら、きっと罵倒の言葉の二つや三つはぶつけていたと思う。
だけど、さすがに今はそんな気分になれなかった。
「おっす」
出来るだけ明るく、当たり前の態度で振舞おう。
そんな風に決意していたというのに、呼びかけるわたしの声は微かに震えていた。
「……よう」
応じる彼の声にも、同じようにビブラートがかかっていた。
もっとも、こちらの場合は単に寒さに震えているだけなのかもしれないけれど。
お互いに手を挙げて挨拶を交わして、だけど、そこから会話が繋がらない。
寒々しい風の音と、校舎の中から聞こえてくる軽音楽部の練習と思しきギターの音色。
――これ、なんて曲だっけ。
古い洋画のテーマソングだったと思うけれど、肝心の曲名が思い出せなかった。
いや、待って。暢気にそんなこと考えてる場合じゃないってば。
ぶんぶんと頭を振って雑念を追い出す。そんなわたしの様子を、彼は怪訝な表情で見つめていた。
奥二重のその瞳を見返すことが、何故かひどく苦痛に感じられて。
「……ええと、ね」
あらぬ方向に視線をさ迷わせながら、わたしはもごもごと言葉を紡いだ。
「なんだよ」
ぶっきらぼうな声で、彼は尋ね返してくる。どうやら聞き取りにくかったらしい。
覚悟を決めるように大きく息をついて、今度ははっきりとした口調で言った。
「深町さんから、伝言」
その一言で表情を変える彼に、なんとなく腹立たしさを感じながら、
「ごめんなさい、だってさ。定番だよね」
わたしは、今の彼が一番聞きたくなかったであろう言葉を口にした。
「…………そ、か」
長い長い沈黙を挟んで、彼はぽつりと呟いた。
寒さに強張った面長の顔には、なんの表情も浮かんではいない。
行けなくてごめんなさいでもなく、遅れてごめんなさいでもなく、ただ「ごめんなさい」。
たった六文字の謝罪の言葉。
頭の良い彼のことだから、その一言だけで、なにもかもを察してしまっただろう。
つまるところ、彼は振られたのだ。いや、それ以前に、告白することさえ許してもらえなかった。
「ね、食べる?」
肩を落とす彼を見ているのが辛くて、わたしは無理やりに明るい態度を繕って声をかけた。
箱ごと差し出したポッキーを一瞥して、彼はフンと鼻を鳴らす。あ、ちょっと鼻水出てやんの。
「食わねえよ。つうか校則違反だろ、それ」
「駄目?」
「駄目だ」
ぴしゃりと切り捨てるその態度が腹立たしくて、わたしはプイと顔をそらした。
当てつけじみた気分で包装を破り、定番のチョコレート菓子をまとめて三本口に放り込む。
「そーいうとこ」
知らず知らずのうちに、ぶすっくれた声が漏れた。
あん? と眉を寄せる彼から視線を逸らして、半分やけになりながら言葉を続ける。
「そーいうとこが苦手なんだってさ」
「なにがだよ?」
「深町さん。アンタのそういうケッペキな感じがどーにもアレみたい」
「……へえ。潔癖ときたか」
茫洋とした呟きとともに、ぐす、と鼻を鳴らす音が耳に飛び込んできた。
わたしは慌てて彼に視線を戻した。ひょっとして泣いてるんじゃないか――そんな風に感じられたから。
予想に反して、彼は泣いてなどいなかった。むしろ逆。困ったように苦笑していた。先ほどの水っぽい音は、どうやら笑い声に鼻づまりの音が混じっただけのようだ。
――こいつ、風邪引きかけてるんじゃないの?
なんとなく不安になりながら、わたしは誤魔化すように明るい声を上げた。
ちょっとわざとらしいくらいにテンションを上げて、彼の肩をバシバシと叩いてみせる。
「まあ気にすんなよ青少年。フラれ記念ってことで、あたしが特別に世界の秘密をひとつ教えてあげるからさ」
なに言ってんだこいつ。そんな心の声が聞こえてきそうな彼の怪訝顔に、わたしは内緒話でもするように囁きかけた。
「驚くなよー? なんと全人類の半数が実は女性なのだ」
「……なるほど。そりゃびっくり」
「でしょ? ビビるっしょ?」
気のない態度とはいえ話題に乗ってきてくれたことが嬉しくて、わたしは大げさに頷いてみせた。
だけど、彼は疲れたような表情で、
「全人類の半数が深町春日だったら良かったんだけどな」
「……なによアンタ。そんなに惚れてたわけ?」
盛り下がるだろ空気読め。危うく飛び出しかけた罵倒をぐっと飲み込んで、わたしは尋ねた。
照れ臭そうに笑いながら、彼は曖昧に頷く。
「まあ、それなりに」
なんだかなあ。真面目一徹な言動とは裏腹に、どうやら彼はなかなかの純情くんだったらしい。
思い込んだら一直線。そんな彼の姿は、状況によっては好ましいものなのかもしれないけれど――残念ながら、今は痛々しいことこの上なかった。
「女が全員深町さんだったら、アンタ一生独り身じゃん」
ちょっとキツいかな、なんてことを考えながら、それでもわたしはツッコミをいれた。
正直言って、いつまでもこんなブルーな会話を続けていたくない。またいつものように、バカみたいな話題で盛り上がりたい。
彼女のことは残念だったけど、それはそれとして青春時代のほろ苦い思い出にでもしてしまおう。
「……それはつまりアレだな、俺に殴れって催促してるんだな?」
わたしの内心の声が聞こえでもしたのか、彼はわざとらしく怒り顔を作ってみせた。
そんな態度がどうにも嬉しくて、わたしはついつい笑みを零してしまう。
滅相も無いですお代官様、なんて演技臭い台詞を吐くわたしに、彼はため息をひとつ漏らす。そして軽く頭を振り、くるりときびすを返した。
「あれ、帰っちゃうの?」
それなりに広い背中に言葉を投げた。彼は立ち止まり、肩越しに応えた。
「これ以上ここにいる理由が無いだろ」
「いやいやいや。放課後の校舎裏で美少女と二人っきりなんデスヨ? なんかこう、無いわけ?」
「お前の日本語は時々おかしい」
「うわー、このヒト超くーるだー」
「……あのなあ」
やれやれといわんばかりの態度でこちらを振り返った。
ひどく投げやりな口調で言う。
「言いたいことがあんなら率直に言え。こっちは」
「傷心の身だって?」
「分かってんならもったいぶるな」
「オケ。んじゃまあ率直に」
一瞬足元に視線を落とし、わたしは小さく息を吐く。頭の中では素数を数えていたりもする。
自分の足が微かに震えていることに、今初めて気づいた。おいおい、ダサいぜわたし。
「おい?」
早くしろと言わんばかりの彼の声に押されて、私はばっと顔を上げた。
自分でも頑張りすぎだと分かるような無理やりの笑顔を貼り付けて、私はとうとう――
「ユーあたしと付き合っちゃいなよっ」
――あれ?
なんだこれ。なんでこのタイミングで茶化してしまうんだろう。
そりゃ確かに状況が状況だし、気持ちは分からないでもないけれど。いや、分からないでもないっていうかそもそも自分の気持ちなんだけど。
でも、さすがにこれはないだろうに。
いくらなんでもこれはキレるんじゃなかろうか。そんな不安を抱きつつ、そろそろと彼の様子を伺うと――案の定、額に青筋が浮いていた。
「ずいぶん変わった遺言だな」
「うわ怖っ! 目が怖いよアンタ!?」
このままでは殺られる。殺して埋められる。ひいっと悲鳴を上げつつ後ずさるわたしに、彼は呆れ顔で声をかけた。
「ふざけたことほざくからだ。――あのな、お前、状況分かってるか?」
「も、もちろんさ。自慢じゃないけど空気を読むことにかけちゃアタシの右に出るヤツはいないよ? 読めすぎてたまにいないはずの誰かが見えたりします」
「病院行け。鉄格子付いてる方の」
あ、その言葉で思い出した。
「そうそう、知ってる? 黄色い救急車ってガセネタらしいよ?」
「安心しろ。今から迎えに来るのは白い方の救急車だ」
「ごめん指とかポキポキ鳴らさないで怖いからいやマジでマジで」
「つうかなんなんだよ、マジで。なんでこのタイミングでそんなん言い出すんだ? ネタか? 嫌がらせか? どっちだ?」
「その二つ以外の可能性に想像が及ばないのかい、チミは」
「…………精神的疾患?」
「うがー、とか叫んでよろしいかしらアタクシ」
……どうやらそういうことらしい。
この分じゃ、大真面目に言い放っていたとしてもまともに取り合ってはもらえなかっただろう。
タイミングが悪かったから、というだけではないかもしれない。
なにせ、顔をあわせればこうやって漫才が始まるような関係なのだから、そもそもそういう対象として見てもらえていない可能性すらあった。
――結構本気なんだけどなー。
内心でひとりごちる。恥ずかしい話だけど、目の前の朴念仁に、わたしはなかなか良い感じにほれ込んでいた。
深町さんのアレについても、正直、断ってくれた彼女に抱きついてキスをくれてやりたいくらいだったし。
いやまあ、さすがに泥棒猫する気にはなれなかったけど……と。
そこまで考えて、気づいた。今の段階では、わたしの気持ちなんてその程度のものに過ぎないということに。
他人に獲られても仕方ない。告白を真面目に受け取ってもらえなくても仕方ない。
ああ、その程度の気持ちなんだ。そんな風に自分を誤魔化せるくらいの"本気"なんだ。
「あー、もう良いや。今の無し。取り消し。付き合わなくて良いよ別に」
大声でまくし立てて、わたしはぶんぶんと両手を振り回した。
はあ? と奇妙な顔をする彼から視線を逸らして、バカみたいな言い訳を口にする。
「良いの良いの。春の陽気に誘われた妖精さんの悪戯とでも思っときなさいな」
「今1月なんだが」
「寒さのあまり正気失ってんのよ、妖精さんも」
「どんな妖精だそりゃ」
アホくさ、と吐き捨てて。彼は再びこちらに背を向けた。
「まあどうでも良いけどな。んじゃ、俺帰るから」
「待て待て待て。もうちょい駄弁ってこうぜダンナ」
「はあ?」
「それともこのあとなんか用事でもあるのかい?」
「いや、無いけど――つうかお前、寒くないのか?」
「そう思うなら上着のひとつもかけてやるのが男の優しさってもんデスヨ?」
「ふざけろ」
ぺしっと頭をはたいてくる彼を睨み返しながら、わたしは内心で苦笑していた。
そう、今はまだこの程度。好きかといえば好きだけど、かといって何者にも代え難いってほどじゃない。
ただ、こうしてバカみたいな会話を交わしているのが楽しいだけ。その程度の思い入れでしかない。
だけど、もしかしたら、きっと。
仕方ないなあと言わんばかりの表情で、彼は肩をすくめる。
「で、駄弁りのお題は?」
「そうだねえ、じゃあ今日のテーマは『失恋』で――って痛っ! ちょ、ぶつな、女の子をぶつなー!」
――もしかしたら、今以上に好きになれるかもしれないから。
本当に、大好きだって思えるようになるかもしれないから。
だから、今日の告白は取り消し。
妖精さんに持って帰ってもらおう。
ぺしぺしと人の頭を木魚みたいに連打する彼に反撃を加えながら、わたしはそんなことを思っていた。
校舎からは、相変わらずのギターの音。曲名は――今思い出した。
「HOW WILL I KNOW、か」
「あん? なんだって?」
なんでもないよ、バカ。
……バーカ。