あなたたちに似ようとしたのは、人恋しくてたまらなかったから


■どうしたものか

 男子トイレの個室に窓は不必要だ。
 ……オーケー、まったくもってその通り。非の打ち所も無い。窓の外で狂い咲く桜の花を見つめながら用を足す、そんな性癖を持つ人間もいるかもしれないけれど、あいにく世の中っていうのはそういう粋人(ヘンタイ)には優しくない。「神様は優しい」と何処かの国のサッカー選手は言ったけれど、それってたぶん大嘘だ。あるいは勘違い。神様は嫌なヤツだ。少なくとも僕にとっては。だってそうだろう? もし神様が優しい性格をしているのなら、どうして男子トイレの個室に窓をつけておいてくれないんだ? もしトイレの個室に窓があったなら、僕は今すぐにでもそこから飛び降りて、何メートルか下の地面に熱いキスをくれてやっていただろうに。
「……ですか?」
 そんな事をつらつらと考えていたら、つい彼女の言葉を聞き逃してしまった。
「……はい?」
 慌てて聞き返す僕に向けて、彼女はわざとらしくため息をついてみせながら、
「これで何度目ですか?」
 眉をひそめて、さきほどと同じ内容であろう問いを繰り返した。
 これで何度目ですか。……さあ、何度目なんでしょうね、と、僕は彼女の白い頬をぼんやりと見つめながら考える。
 便座に腰掛けた僕の上に覆い被さるようにして、彼女は中腰で立っていた。結構つらい体勢だと思うけど、彼女は苦痛も疲労もまったく感じていない様子で、ただただ呆れ返ったと言わんばかりの表情を顔に貼り付けて僕の手首に包帯を巻いていた。すごく手慣れた手つき。さて、慣れさせてしまったのは一体誰なんだろうか。
「何度目なんでしょうね、本当に」
 巻かれるそばから紅く染まってゆく包帯に視線を落として、僕はもごもごと小さく呟いた。

 初めて手首を切ったのはいつだっただろうか。そんなに昔のことだとは思えないけれど、かといって正確な日時を思い出せるほどには最近の事ではない。日時どころか、何処で切ったのか、何故切ろうと思ったのか、何故実際に切ったのか、そんな根元的なことさえ思い出せなかった。思い出そうとすればするほど、その時の記憶はぬるぬるとした川魚かなにかのように、僕の手のひらからするりと抜け出して、また脳味噌の中のどこかへと逃げ去ってしまう。
 ただ。
 ただひとつだけ逃げない記憶があるとすれば。
 それは、あの時もこうして、彼女が僕の体に覆い被さって、傷を手当てしてくれたということだけだ。

「もうそろそろ止めにしませんか?」
 と、キャラクター物のピンバッジが何十個もつけられた通学鞄に『僕専用治療キット』を仕舞いこみながら、彼女が言った。その口調は呆れているというよりは疲れていて、疲れているというよりは怒っていて、怒っているというよりは茶化していて、茶化しているというよりは――なんだろう。それ以上は僕には読みとれない。彼女とはかれこれ十年来のオツキアイだけれど、深いところではやっぱり理解できない部分もあったりする。たとえば僕が手首を切る意味を、彼女が理解できないように。……といっても、これは僕にも理解できない事柄だったりするのだけれど。
 そう。僕には僕が自傷する理由が分からない。最初の一、二回は何かの意味を込めて手首を切っていたのかもしれないけれど、それは何回も何回も何回も繰り返しているうちに、気が付けば生理的習慣的な行動になってしまっていた。馬鹿げてる、と人は笑うかもしれない。僕もそう思う。こういうのって、本当に馬鹿げてる。
「僕も止めにしたいんですけどね」
 ゆっくりと立ち上がりながら僕は言った。長い間便座に腰掛けていた所為か、ひどく腰が痛んだ。うん、と両手を上に伸ばして体を反らすと、ぽきぽきと心地よい音がした。親父臭いですよ、と彼女が苦笑する。僕も笑った。苦く、苦く。
 床に置いていた鞄を取って、僕は個室を出た。周囲を軽く見回してみたけれど、どうやら男子トイレに僕ら以外の人間はいないようだった。ポケットから携帯電話を取り出して時間を見れば、あと十分で2時限目の授業が終了する、といった頃合い。思っていたよりも長い間、僕はあの個室に籠もっていたらしい。
「……でも、止められないんですよね?」
 何処か笑いを含んだ口調で、先に個室を出ていた彼女は言った。トイレの出入り口近くに立って、こちらを見もせずに。
 僕はその問いに答えないまま洗面所で手を洗うと、はぐらかすように全然関係の無い台詞を吐いた。
「ここなら見つからないと思ったんですけど」
 授業中の男子トイレ。ジサツするのに最適の場所、だなんてことは思わないけれど、少なくとも誰かに発見されることはないと踏んでいた。見つかるとしてもそれはたまたま腹の調子が良くなくて授業を抜け出してきた男子生徒だとか、授業をサボって煙草なんかをふかしている不心得者がいないかどうかを確かめに来た生活指導の教師だとか、そういう連中にであって、まさか彼女にではないだろう、と、そう考えていた。だけど現実に彼女はいつものごとく僕を発見して、治療して、ここにいる。
 まるでテレパシーだ、と、僕は呆れ半分驚き半分に思った。あるいは、とも思う。あるいは彼女はずっと僕の事を、もしも怪しげな行動をとるようであればすぐさま駆けつけてこられるようにずっと監視しているのではないか、とも。
「見つかりますよ」
 そんな僕の心中を透かして見たかのように、彼女は優しげな声で言う。
「ううん、見つけます。どこであろうと、絶対に」
 言いながら振り返った彼女の顔には、ひどく苦い微笑みが浮かべられていた。
「見つけますか」
「見つけます」
「絶対に?」
「絶対に」
 お互いに種類の違う笑みをこぼしながら、そんな他愛の無いやりとりをする。いつものように。
 そう。いつものように、だ。僕は――僕と彼女は、もうずっと何年も、こんな事を繰り返していた。僕がジサツを謀り、彼女がそれをくい止める。意味なんて無い。意味なんて分からない。だけど繰り返す。一昔前のシューティングゲームみたいに、何度も何度も何度も同じステージをループし、同じ敵を倒し、得点カウンタが上限に達して停止しても繰り返す。まるでそうしなければいけないのだ、と、そうするべきなのだ、と信じているかのように。少なくとも僕は、そういう繰り返しが日常なのだと信じていた。彼女が僕と同意見であるか、なんてことは分からないけれど。
 僕はハンカチで手を拭って水気を取ると、彼女の待つ出入り口へと向かった。自分の方へと歩み寄ってくる僕の姿を、何処かぼんやりとした目つきで見つめながら、彼女は、ふと思いついた、という様な口調で訊ねてきた。
「なんでこんなことするんですか?」
 こんなこと、というのはもちろん自傷行為のことを指すのだろう。僕は彼女から二歩ほど離れた場所に立ち止まると、顎に手を当てて大仰に考えるふりをしてみせた。ふり、というのは他でもない、そんな事僕にだって分からない、という理由に起因する行為だ。真剣に考えたって答えなんて出ないのだ。だから僕は顔を上げて彼女の瞳を覗き込みながら、おどけた素振りでこう言った。
「なんとなく」
 はあ、と、彼女が馬鹿にしたようなため息をつく。
 そしてこちらを睨み付けて、
「なんとなく、ですか」
 オウム返しに問い返してきた。
 だから僕はもう一度繰り返す。
「なんとなくです」
 言いながら、どうにも自分がひどく馬鹿な人間に思えてきた。いや、馬鹿なのは昔からだけど、今日に限ってはいつもにも増して救いがたい馬鹿であるように感じられた。授業をサボって、男子トイレに籠もって、僕は何をやっているんだろう? 彼女を呆れさせて、彼女を怒らせて、彼女に心配をかけて、彼女に迷惑をかけて、僕は何をやっているのだ? そもそも死ぬつもりなら、もっと手っ取り早い方法はいくらでもあるはずだろうに、なぜ100円ショップで売っているようなちゃちな剃刀なんかを振り回すんだ? 死ぬなら、死にたいなら、死のうと思うなら、もっと他にやり方があるだろう? どうしても剃刀で死にたいっていうのなら、そう、例えば手首じゃなくて、もっと他の場所を切ってみる、とか――。
「……どうかしました?」
 黙りこくってしまった僕を気遣わしげに見つめて、彼女が言う。
 僕はその白い頬だとか、紅い唇だとか、ふたつおさげの髪だとか小さな形の良い耳だとか華奢な肩だとか子供みたいに細い手足だとかセーラー服の下の薄い胸だとかハイソックスに隠されたくるぶしだとかキャラ物のピンバッジだとか治療キットだとか――とにかく、彼女に関する全ての物事から目をそらしながら、かすれた声で訊ねた。
「……止めにしたいですか?」
「はい?」
「もう、終わりにしたですか? こういうの」
「…………」
 沈黙、沈黙、沈黙。数秒か、数分か。とにかく僕はしばらく待ってみたけれど、質問に対する解答はなかなか帰ってこなかった。待ちかねて僕は視線をちらりと彼女に向けてみた。
 彼女は漫画みたいにがっくりと肩を落として、足元を見つめていた。何事だろうか、と僕が戸惑いを覚えるのとほぼ同時に、
「……はあぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
まるで魂そのものを吐き出しているみたいに深くて深くて深いため息を、彼女は吐き出した。長々と。そして次の瞬間、ばっとふたつの尻尾みたいな髪の束を振りまわすようにして顔を上げて、僕の顔を正面から見据えると、
「あったりまえでしょうがっ!」
 学校中に響き渡りそうな大声で、叫んだ。
「わ、ちょ、声が大きい!」
 慌てて彼女の口を塞ごうとするけれど、彼女は僕の手を振り払ってなおも言い募る。
「毎回毎回手当する方の身にもなってみなさいよっ! ただでさえ血なんて好きになれないのに、それがたらたらたらたら景気良く流れてるのを止める人間の身に! こないだの保健体育の授業でね、切り傷の治療をやったのよ。人形使って。その時あたしが先生になんて言われたと思う? 『素人とは思えないね』よ? アンタ何が悲しくてプロ並みの技術身につけなきゃならないのよ! つうかそもそもアレよ、消毒用のアルコールも包帯も高いのよ? 服買うお金も惜しんでそんなもん買ってるアタシの気持ちがアンタに分かるのかっての! ええ?」
 いつのまにか二人の間での癖になっていた丁寧語さえも忘れるくらいに取り乱して、彼女は早口にまくし立てた。そして言いたいことを言えるだけ吐き出してしまうと、はあはあと息を荒げながらじっと僕を睨む。致死量ぎりぎりの怒りと、そして同じくらいの量の悲しみが籠もった視線で。
 ――だけど、よほど苦労をさせられたんだろうな、と他人事のように考えてしまう僕は、たぶんこれからも同じ事を繰り返すんだろう。だから僕は言った。もうここで終わらしても良いかもな、なんていう諦観を、ため息にブレンドして。
「なら、終わりにしましょう」
 言いながら、つい先ほど手首を切るのに使った剃刀を鞄から取り出して、首筋に当てた。
 頸動脈。よくは分からないけれど、ココを切れば多分死ねるだろう。
「…………」
 睨め上げるようにして僕を睨み付けていた視線が、一転、驚きに見開かれる。そういう表情も可愛いな、なんて場違いなことを考えながら、ふと、最近の僕は彼女の呆れた顔と怒った顔と苦笑した顔しか見ていないことに気づいた。まあ、いまさらだけど。
「……なんのつもりですか?」
 再び丁寧語に戻った彼女が問う。
 僕は手が震えていることを自覚しながら(情けない。手首は平気でも首は駄目なのか?)苦労しいしい平静な声音を作り出して応えた。
「いや、さすがにそう何回もお手数をかけるのも気が引けるので。そろそろここらで止めにしようかな、と」
「……死ぬ気ですか?」
「はい、まあ」
 時代遅れのリスカ少年を気取るのも、さすがにそろそろ飽きてきたし。
 と、彼女はそんな僕の瞳に――あるいは、僕の瞳の中の自分に――向かって、あろうことか、半分笑っているような声でこう言った。
「死ねませんよ、絶対」
「は?」
「死ねないって言ってるんです、貴方には死ねない、って」
 それはつまり、僕には根性が無いとか僕は死ぬ勇気さえもない臆病者だとか今までリスカごっこをしていたのは全て僕の甘えだとかそういう事を言っているのだろうか? そうやって僕を逆上させた上で、どこかの漫画みたく感動的な台詞を吐いて僕を改心させて二人手を取り合ってハッピーエンド、とか、そういう感じになることを彼女は期待しているのだろうか?
 だとしたら、なんだか不愉快だ。僕は彼女に何かを言い返そうと口を開いた。
「僕は――」
 だけど、その言葉が最後まで続けられることは無かった。
 僕の声を遮るようにして、彼女は心底呆れたという素振りでこんな台詞を吐いてくれた。
「だって、頸動脈はそっちじゃないですよ? 逆です、逆」
「…………え?」
 逆? そうなの?
 思わず思考停止に陥る。その隙に彼女はつかつかと固まってしまった僕のすぐ側まで歩み寄ってくると、僕の手から剃刀をむしり取って、刃先を器用にハンカチでくるんで自分の鞄の中へと放り込んだ。ジ・エンド。僕の負けだ。あまりの情けなさに笑ってしまいそうになる。こんなのって、ちょっと酷すぎる。僕は深く嘆息した。恥ずかしくて彼女の顔も見れない。
「……………………」
 ほらみろ、彼女だって呆れ返って声も出ないじゃないか――
 と。
 みっともなくてどうしようもなくなっていた僕の視界を、いきなり白いものが塞いだ。これはなんだろうと考える暇もなく、暖かくて柔らかい感触が――次いで、硬くて痛い感触が僕の唇を襲った。痛みやらなんやらで脳味噌が良い感じに混乱した。もうなにがなんだか分からない。僕は助けを求めるように彼女がいる方向を見た。彼女がいた。ただし、ついさっき見たときよりは遙かに近い距離――具体的に言えば、僕のすぐ目の前、吐息がお互いの顔にかかりそうな位置に。
「……いちち……」
 なんだか痛そうに顔をしかめて唇を押さえている彼女。
「……勢いがつきすぎた……かな……」
 あー。ええと、つまりはアレか。最初に見えた白いのは彼女の顔で? あの感触はつまり、その、僕のアレに彼女のアレがくっついた感触で? そのあとのアレはアレですか? 歯と歯がぶつかった所為で痛かったりするわけですか?
 ……いやもう、なにがなんだか。どうしたものなのだろうか。分からない。分からないから訊いてみることにした。
「……ねえ」
「はい?」
 未だに痛そうにしている彼女をぼんやりと見つめながら、
「なんでこんなことするんですか?」
 そう訊ねると、彼女は不意に顎に手を当てて大仰に考えるふりをしてみせた。ふり、というのは他でもない、そんな事彼女にだって分からない、という理由に起因する行為なのだろう。真剣に考えたって答えなんて出ないのだ。だから彼女は顔を上げて僕の瞳を覗き込みながら、おどけた素振りでこう言った。
「なんとなく」
 さて。どうしたものか。
 思わず真剣に悩み込みそうになった僕を見て、彼女はふわりと笑う。
「血、出てますね」
「え?」
「唇」
「あ――」
 という間もない。彼女はまたも唐突にこちらの距離を詰めると、僕の肩に両手を置いて顔を寄せ、ぺろり、と僕の唇を舐め上げた。そして近づいたときと同じくらいの早さで離れていった。そのあとの行為が見物といえば見物だった。彼女はすごい勢いで自分の鞄を拾い上げると、まるで脱兎のごとくその場から逃げ出したのだ。
「な……!」
 男子トイレの出入り口から飛び出して、一目散に駆けていく彼女。その背中を追いかけて廊下に飛び出した僕は、どうにも追いつけそうにないことを悟ると、馬鹿みたいな大声でこう叫んだ。
「なんでこんなことするんですかぁ――!」
 それに対して、彼女は教室三つ分を挟んだ距離で立ち止まると、くるりとこちらに振り向いて、
「なんとなく――!」
 やっぱり、馬鹿みたいな大声で、しかも笑顔でそう叫び返すのだ。



 さて。
 どうしたものか。
 とりあえずこの日から僕はリスカなんて不健全な行為を止めて、彼女との清く正しい恋愛に没入するのでした、とでも言えばすべては丸くおさまるのだろうけれど。
 実際はそんな風には行かなくて。
 僕はあいかわらず何日かに一回は手首を切るし、彼女は彼女でそのたびに駆けつけて僕の手首に白い包帯を巻くのだ。それ以外に変わったことといえば、包帯を巻き終えた後に、彼女が僕にキスを求めてくるようになったことと、そして「こんなこともうやめて」的発言をしなくなったことくらいだろうか。そういえば、その事について訊ねてみた僕に、彼女はこう言ったっけ。

「だって、手首を切ってくれないと関係が保てないじゃないですか」

 よく分からないけど、そういうものらしい。
 歪んでるなとは思うけど、まあ、こういう風に生きていくのも悪くない。
 生きていく。ああ、なんだか間違っている気もするけど、まあいいや。



 世の中そんなもんなんだろう、多分。



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