あなたたちに似ようとしたのは、人恋しくてたまらなかったから


■一匹いたら三○匹いると思え

 ある日、私が床に寝転がって新聞など読んでいると、目の前をちょこちょこと歩いてゆく者があった。
 黒光りする平べったい体とゴキブリという名を持つその生き物を、私は大層嫌っていたので、うひゃあなどと叫んで、寝たままその場でぴょこんと三寸ばかりも飛び上がりながら、いかん、これは退治せねばなるまいと、読んでいた新聞を丸めて奴に向かって叩き付けた。
 私が振り下ろした新聞は、惜しいところで奴には当たっておらなかった。私は悔しさの余り台所から包丁でも持ってきて彼奴めを切り刻んでやろうかとも思ったが、待て待て相手はたかが虫けらであろう、ムキになることもあるまい、と思い直し、そのまま新聞で奴を退治してくれることにした。
 私などはさほど運動の出来る方ではないため、素早い奴めの息の根を止めるのはなかなかに困難なことなのだが、そのへんは持ち前の執念深さと闘争本能でもって、なんとか奴を部屋の隅に追い詰める事に成功した。
「死ぬ前に言い残すことは無いか」
 私は、部屋の隅で脅えた様に動かなくなってしまったゴキブリの野郎に対し、このような質問をした。ゴキブリが喋る口など持たぬことは分かっておる。
 勝者の余裕、というやつだ。
 驚いたことに絶体絶命のゴキブリは、虫けらの癖をして、私の言葉に対して答えを返してきた。
「待て待て人間、何故に小生を無闇に殺そうなどと致すのだ。小生は貴方に対し、なんの迷惑も掛けてはおらぬではないか。一寸の虫にも五分の魂が有るという。なんとか見逃してやってはくれまいか」
 私は、もっともだ、と思い、今回ばかりはゴキブリめを見逃してやることにした。

 次の日、私が昨日と同じように、寝転がって雑誌など読んでおると、目の前をちょこちょこと歩いてゆく者があっ
た。黒光りする平べったい体とゴキブリという名を持つその生き物を、私は大層嫌っていたので、うひゃあなどと叫んで、寝たままその場でぴょこんと三寸ばかり飛び上がりながらも、いかん、これは退治せねばなるまいと、読んでいた雑誌を丸めて奴に向かって叩き付けた。
 私が振り下ろした雑誌は、惜しいところで奴には当たっておらなかった。私は悔しさの余り物置から金属バットでも持ってきて、奴めを打ち砕いてやろうかとも思ったが、待て待て相手はたかが虫けらであろう、ムキになることもあるまい、と思い直し、そのまま雑誌で奴を退治してくれることにした。
 私などはさほど運動の出来る方ではないため、素早い彼奴めに引導を渡すのはなかなかに困難なのだが、そのへんは持ち前の執念深さと根性でもって、昨日のように、なんとか奴を部屋の隅に追い詰める事に成功した。
「死ぬ前に言い残すことは無いか」
私は、部屋の隅で脅えた様に動かなくなってしまったゴキブリの野郎に対し、このような質問をした。ゴキブリが喋る口など持たぬことは分かっておる。
 勝者の余裕、というやつだ。
 するとどうした事だろう、何処からともなく昨日のゴキブリが……もちろん私にゴキブリの個体差を見てとる眼力など無い。ただ、その偉そうな態度をして、ああ、こいつは昨日のゴキブリであるなと悟ったのだ。
 なにはともあれ昨日のゴキブリが脇合いからちょこちょこと現れて、私に対してこう言ったのだ。
「待て待て人間、何故に小生の同類を無闇に殺そうなどと致すのだ。彼は貴方に対し、なんの迷惑も掛けてはおらぬではないか。一寸の虫にも五分の魂が有るという。二匹になれば十分の魂である。なんとか見逃してやってはくれまいか」
 私はまたも、もっともだ、と思い、今回もゴキブリめを見逃してやることにした。

 だが、それがよろしくなかった。

 私などは元来気の優しい上に単純な人間なので、次の日から、ゴキブリが現れても、以前の様に殺そうなどと思えなくなってしまったのだ。
 ゴキブリどもはそれに気を良くして、あのゴキブリめが講釈をぶってから一週間も経つと、とうとう二、三十匹で
卓を囲み、盛大に酒宴なんぞを始めるようになってしまった。
 私がたまりかね、奴らに注意などしようものなら、またあの時のゴキブリめが現れ、偉そうにふんぞりかえってこう言うのだ。
「君々、人間君。君はどうして我々に文句など言えるのかね。一寸の虫にも五分の魂が有るという。三十匹集まれば百と五十分もの魂が有る計算となる。これはきっと人間一人分の魂よりも重いのだから、君が我々に意見など出来る道理など無いのだよ」
 私は迂闊にも、まったくだ、などと思ってしまい、そうこうしている内に、とうとう奴らゴキブリどもに、家を乗っ取られてしまった。
 私は家財一切をまとめて風呂敷で包み、背中を丸めてトボトボと、昨日までは我が家だった建物を出た。
 今は亡き母から、人の言葉を軽々しく信じてはならぬと耳にタコが出来るほどに教えられてきたが、人間だけでなく、ゴキブリの言葉まで信用出来ぬとは。

 まったく、せちがらい世の中になったものである。


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