あなたたちに似ようとしたのは、人恋しくてたまらなかったから


■命日

 その日は一日中嫌な雨が降っていた。
 日が暮れて、ようやく雨も小降りになってきた頃、彼がふらりと店に入ってきた。
 彼はいつものようにカウンタの隅の席に腰掛けると、眠そうな眼をしたバーテンダーに向かってビールを注文した。
「珍しいね」
 そう問いかける僕に、彼は片方の眉を上げて聞き返してきた。
「なにが?」
「君がビールを頼むことさ」
 バーテンダーが無言でよく冷えたビールをふたつ置き、そして去る。
 その片方を取って一口飲んでから、僕は続けた。
「いつもはウイスキーだろ?」
 彼はしばらくの間、無言でカウンターの木目を数えていたが、やがてそれにも飽きたのか、グラスを地面と垂直になるくらいまで傾けて、一気にビールを飲み干した。そしてまた黙り込んだ。
 こういった類の沈黙は、彼と過ごす時間の中でもたびたび訪れるものだった。それは大抵の場合、彼が何かに疲れ切っていることを僕に教えてくれる。たとえば買った本の内容があまりにもつまらなかっただとか、ファーストフード店で食べたハンバーガーにピクルスが入っていなかっただとか、一緒に寝た女の子のいびきが五月蠅くて眠れなかっただとか。そんな些細なことが原因で、彼は実に簡単に疲弊した。そしてこんな時の彼は、まるで何処かの国から来た留学生みたいに簡単な受け答え以外の会話を拒絶するのだ。
 だけど、今日の彼は、そういった通り一遍の状態とはまた違う反応を返してきた。
「まあ、ね」
 ぽつり、と、つららから溶け落ちた水の音みたいに唐突に、彼は口を開いた。
「今日は特別な日だから。なんなら君の分の代金を支払っても良いくらいだ」
「特別?」目の前のフライドポテトをひとつつまんで問う。「婚約でもしたのかい?」
「そんなのじゃない。――いや、そんなの、かな?」
 そういう言い回しは彼の得意とするところだった。何か意味を含んだ応えを返しているようで、実は山彦のように無意味な返事。
 僕はグラスの底に残ったビールの泡を眺めながら、じっと言葉の続きを待った。
 三分ほどの時間を浪費した後、彼はまたぽつりと呟く。
「次の三つの中から選んでくれ」
「なんだって?」
 問い返す僕を無視して、彼は先ほどまでとはうってかわった饒舌さで言の葉を編み始めた。こういう彼も珍しい。そう、ビールを飲む彼と同じくらいには。
「ひとつ。ここのバーテンがハーパーを仕入れるのを忘れていた。ふたつ。今日は俺の父親の命日である。みっつ。世界的規模の陰謀に巻き込まれた俺は、ここである人物と待ち合わせをする羽目になった。その際の目印として俺はこんな格好をして(そこで彼は自分が着ているデニム地の半袖シャツを撫でた)ビールを飲み、そして待ち合わせの相手は胸に紅い薔薇を指してマティーニを飲むことを指示された――さあ、どれだろう?」
「みっつ目だったらとても面白いと思う」
「事実は小説より奇なり」使い古されてもうぼろぼろになってしまった格言を唇にのせて、彼は小さく微笑んだ。そして、カウンターの隅でTVを見ていたバーテンダーに向かって二杯目のビールを注文した。氷を入れてくれ。そんなふざけた注文にもバーテンダーは無表情で頷いた。ハイネケンに氷。馬鹿げてるよ、と心の中で呆れた声を上げながら、僕の口は違う言葉を吐いた。
「で、本当の答えはどれなんだい?」
「ふたつめさ。たぶんね」
「たぶん?」
「ああ」瓶からグラスにビールを移し替えるバーテンダーの後ろ姿を見つめながら、彼は頷いた。
「俺の父親が、もう十何年も前からいなくなっちまってることは話してたよね?」
「そんなことを聞いたことがあるような気もするね」
「言ったよ」
 僕は何も答えず、ただ肩をすくめた。店の何処かで女が声を上げて笑っていた。たぶん幸せなんだろう。笑えるくらいに。幸せでない僕たちは、せいぜい唇の端を数ミリ上げてみせることしか出来ない。彼がそれをやれば人はニヒリストと讃える――讃えるのだ。ニヒルという言葉の意味すらも知らない連中が――かもしれないけれど、僕の場合は口内炎が出来ているのだと思われる。あまつさえ、ビタミンを取ると良いよなどと助言を賜ったりもする。レモンよりチェリーの方が良いよ、と。
 彼はちらりとこちらを窺って僕が退屈の余り眠っていないことを確認すると、少し早口に言葉を続けた。
「俺は父親の顔も、名前も、好きな色も、ケーキを食べるときは先に苺から食うのかさえも知らない。そんなこと、知りたいと思ったことも無かったね。ただ最初からそんな人物は存在しないものとして生きてきたんだ。今日までは」
 バーテンダーがビールを持ってきた。今度もまた、ふたつ。たぶん片方は僕のために用意されたものだろう。彼は一旦そこで言葉を切ると、グラスに手を伸ばした。その指先を目で追いながら、僕は問う。
「今日まで、というと?」
「正確には今日の夕方まで、かな。マンションのベランダから曇り空を眺めていてね、ふと思ったんだ。なんて憂鬱で、なんてしみったれてて、なんて静かな日の暮れ方をするんだろう、ってね。そして、こうも思った。こんな日こそ、人が死ぬには相応しい」
 僕は無言でグラスを傾けた。氷の入ったビールは、まるでビールじゃないみたいだった。
 ビールらしさを失ったビールで唇を湿らせつつ、彼は熱に浮かされたように語り続ける。
「だから、俺は決めた。今日は親父の命日だって。もしかしたら俺を捨てた後もまだどこかで生きていて、美人の奥さんに今年で中学二年生になる娘、去年小学校に入学したばかりの息子、それとあと三十年は払い続けなきゃならない家のローン……そんなものたちにもみくちゃにされているのかもしれないとは思うけど。でも、決めたんだよ。俺は」
「……そうかい」
「ああ」
 彼は頷いて、また一気にビールを飲み干した。その喉がビールを嚥下するたびにうねうねと形を変える様を見つめながら、僕は、目の前のこの男は何故そんな事を今になって決めたんだろうか、なんてことを考えていた。
 しかしそれは、考えるまでもないことだ。彼はただ単に、巡り会ってしまっただけなのだ。人が死ぬのにうってつけの夕暮れ時に。そして、その時に死ぬべき(あるいは殺すべき)誰かを思いつけなくて、しかたなく過去の記憶の中から父親なんて古臭い人形を引っ張り出してきたのだ。代償行為。そんなものだろう。きっと。
「それで」
 からっぽになったグラスの底を見つめる彼に、僕は最後にもうひとつだけ問うてみた。
「それで結局、なんでビールなんだい?」
「それは――」
 彼は肩をすくめて言った。
「それはつまりこういうことさ。『真実なんてクソ食らえ』」
「なるほど」
 僕は二度ほど頷き、そして席を立った。
 後には、空っぽのグラスがいくつかと、食べかけのフライドポテト。そして、人の形をした三文小説だけが残された。




目次