あなたたちに似ようとしたのは、人恋しくてたまらなかったから


■同じ匂い

 放課後の帰り道。
 校門を出たところで、会いたかったのか会いたくなかったのか、判断に迷う相手と出くわした。

「あ――」

 面食らった声を漏らしたのは、お団子頭がちょっと可愛い感じの女の子だった。
 学年は僕より一つ下の高校二年生。小柄なくせにバレー部なんかに所属していて、しかもレギュラーだそうだ。
 実家はラーメン屋。家族構成は、父母に祖父、そしてふたつ年上の姉の五人家族。
 取り立てて趣味を持っているわけではないけれど、週末にはよくパン屋巡りをしているらしい。
 つらつらと頭の中に浮かんでくるプロフィール。
 その大半は、聞きたくもないのに聞かされた、ノロケ話からの情報だった。

 ……一瞬、気づかなかったことにしようかと思った。
 彼女と顔をあわせるのは一月ぶりくらいで、しかも最後に会った場所が極めつけにろくでもない。
 たぶん彼女は、僕があの場にいたことにすら気づいていないと思うけれど、それでもあの日、見たくもない表情を見て、聞きたくもない声を聞いてしまったこちらの立場としては、どうにも気まずいものがある。
 どうしたものかと思案しているうちに、彼女は小走りにこちらに駆け寄ってきていた。
 こうなってしまうと、もう逃げようはなかった。

「いま帰り? 部活は?」

 僕の目の前で立ち止まった彼女に、仕方無しに尋ねた。

「お休みです。顧問の先生出張やから」
「ふぅん」

 僕は頷いた。この時点で、もう会話のネタは尽きていた。
 それじゃ、と短く挨拶(と呼べるようなものではないが)を残して、僕はその場を立ち去ろうとする。
 僕らが通う高校は小高い丘の上にあって、下校時にはちょっとした坂を下らなければならない。それほど急な坂ではないけれど、何年か前に卒業した生徒が途中で転倒して足の骨を折って以来、自転車通学の生徒は降車して歩くよう指導されていた。
 そういうわけで、僕はこうして自転車を押しながら歩いているわけなのだけれども――そんな僕の隣に、並んで歩く人影があった。誰か、などと考える必要もない。どうやら彼女は、こちらに同行するつもりらしかった。
 僕が押す自転車の車輪から、きぃきぃと軋むような音が響くなか、僕らは無言で歩いた。
 そろそろ油を差さないといけないかもしれないな、なんてことを考えて、そしてふと気づく。

「……家、こっちやったっけ?」

 僕の問いに、彼女はこくりと頷いた。

「はい。花影町です」
「ああ、けっこう近所なんや。ウチは西新町」
「知ってます」
「そか。そやね」

 そりゃ知ってるだろうよ。僕は内心で嘆息した。
 彼女が我が家を訪れたことはない。だけど、ウチのお隣さんのところには、しょっちゅう顔を出していた。
 オンボロアパートの隣室から楽しげな笑い声が聞こえてくるたび、我が母上はいつもいつも同じ台詞を口にしたものだった。
 アンタも早よカノジョ作りや、と。
 そしてその言葉に「でっかいお世話や」と言い返すのが、僕らの日常で。
 だけど、そんな会話が我が家で行われる機会は、あの日以来、永久に失われていた。
 母にからかわれなくなったのは良いけれども――でも、隣を歩くこの女の子の、あの明るい笑い声を聞けなくなったのは、少し残念だった。
 黙りこくったまま、俯きがちに歩く彼女。そんな彼女の表情に、どうにも遣り切れないものを感じてしまう。こうなりそうな気がしたから、会いたくなかったんだ。誰にともなく愚痴を零す。こういうのは嫌だ。本当に、嫌だ。
 正直に言おう。
 この瞬間の僕は、かつて無いほどにイラついていた。
 とにかく、この状況から逃れたくて仕方なかった。
 だけど、不本意ながらもオトコノコである僕には、彼女を捨て置いて逃げ出す、なんて行動は取れなくて。
 だからだろう。困難に直面した僕の脳味噌は奇妙な方向に思考を働かせて、そして、わけの分からない解決策を提案してきた。

「……後ろ、乗る?」

 気がつけば、僕はそんな言葉を口にしていた。苦し紛れの言葉だった。
 きょとんとした顔でこちらを見つめ返してくる彼女に、慌てて言い訳する。

「いや、なんとなく。嫌やったらええよ」

 そう、なんとなくだ。特別な何かがあるってわけじゃない。
 このまま自転車を押して歩くというのもなんだか間の抜けた話だし、なにより、後ろに乗せてしまえば、これ以上彼女の顔を見ないで済む。疲れているような、堪えているような、どうにも気に入らない表情。正直なところ、そんなものを眺めながら下校するだなんて、僕にはもう耐えられそうになかった。


 ***


「ちょ、大丈夫ですかセンパイ。めっちゃフラフラしてますけど」

 心配そうな彼女の言葉に、僕は小さく頷いた。

「大丈夫大丈夫。…………たぶん」
「うわー、たぶんとか言ったよこの人!」
「しゃ、しゃあないやろ!? 二人乗りなんか中学以来なんやから!」

 怒鳴るように言い返した拍子に、ふらりと自転車が傾く。
 よたよたと走る自転車はあからさまに危なっかしくて、自分でも笑ってしまいそうになる。
 なにやってんだよ俺。馬鹿じゃねえの。

「そうなんですか?」
「そうなんです」
「ふーん。……そんときは誰と二人乗りしたんですか? カノジョ?」
「ちゃうちゃう。そんなええもんちゃうよ。オトコや」

 自転車に乗せて以来、少しばかり明るさを取り戻したような彼女の声。
 それを心地よく受け止めながら、僕は中学の頃の馬鹿みたいな思い出話を口にした。

「ツレんとこ遊び行った帰りやったんやけどな。あのアホ、余所見しとって田んぼに落ちよったんや。本人泥だらけやしチャリはぶっ壊れるすで散々やったから――んでまあ、後ろ乗せたったんよ」

 あのときは本当に大変だった。
 しみじみと思い返す僕の背後から、彼女の実に率直な感想が飛んで来る。

「そうなんですか。色気もなんもない話ですね」
「ほっとけ」

 思わず苦笑を漏らしたところで、がたんと派手な震動が車体越しに伝わってきた。
 どうやら石か何かを踏んでしまったようだった。

「わっ――と」

 僕は転倒しそうになる自転車を必死に制御する。
 落ちるのを怖れてのことだろう。遠慮がちにこちらの腰を掴んでいた手が、しがみ付くように前に回された。
 ぎゅっと腹を締め付けられる感触。かなり息苦しいけれど、ある意味では幸せな状況ではあった。

「ご、ごめんな。びっくりした?」

 背中に伝わる柔らかな温もりに、ついつい声をうわずらせてしまう。
 これじゃ意識してることがバレバレじゃないか、と悔やむこちらを余所に、彼女は沈黙を返答とした。
 気に触ったのだろうか。そう危惧する僕の耳に、小さな呟きが飛び込んできた。

「…………ます」
「え?」

 僕が聞き返すと、先ほどよりは多少明瞭な声で、

「タケくんと、おんなじ匂いがします」

 ……そんな台詞が聞こえてきた。
 す、と意識が冷えた。
 タケくん。
 そうか、そうだよな。

「――バイトのせいやろな。一緒のスタンドで働いとったから」

 高校に入学して以来、二年以上も働いてきた職場だから。
 ガソリンの匂いくらい染み付いていて当然だと思った。

「知ってます」
「うん……ときどき遊びに来とったもんな、自分」
「センパイは――まだあそこで働いてはるんですね」

 そう呟く彼女の声には、何かを思い返すような響きが含まれていた。


 ***


 タケシと僕の関係は、いわゆる幼馴染というやつだった。
 僕が三歳の時にあいつの家族がアパートの隣室に越してきて以来、十年以上も毎日顔をあわせてきた。
 幼稚園、小学校、そして中学校。高校に入ってからはバイト先まで一緒で、まさに腐れ縁じみた間柄だった。
 どちらかといえばツッコミ体質の僕と、若干天然なところのあるタケシは、妙にウマが合っていた。
 僕はアイツを一番の親友だと思っていたし、アイツもたぶん同じように考えていてくれたと思う。
 お互い、口が裂けてもそんなことは言わなかったけれども。

 僕が働いている(そしてタケシが働いていた)ガソリンスタンドは幹線道路沿いに店舗を構えていて、夕方ごろになるとひどく忙しくなる。だけど、その日は何故か客の入りが悪くて、自然、僕とタケシは暇を持て余す羽目になっていた。
 目の前の四車線道路を行きかう車を眺めながら、僕たちはだらだらとお喋りをして時間を潰す。
 そんななか、ふとした拍子に将来の話が話題に上った。

「そういや自分、進路どないすんの?」

 そう尋ねる僕に、タケシは何故か言いよどむような素振りを見せた。

「ん? んー……とりあえず進学しよ思とんやけど」
「いや、そら知っとるがな。せやないとなんのために進学クラスおるんか分からへんやん」

 もっとも、進学クラスに所属していても実際は就職希望という生徒も少なくはない。仲の良い友人と離れたくなかっただとか、単に格好つけてみたかっただとか。そんなどうでも良い理由で進学クラスを選択して、挙句に授業についていけなくなるヤツは掃いて捨てるほどいた。
 だけど、タケシの場合はそうではないはずだ。

「大学やろ? どこのガッコ行くん」
「あー……」
「なんよ、どないしたん?」
「いやな、俺てほら、ぶっちゃけ頭良ぉないやん」

 そんな問いかけに、僕は至極ごもっともとばかりに首を縦に振った。

「せやね」
「即答かい。……まあええけど。んでな、センセと相談したんやけど、どうも地元の大学は無理っぽいて」
「ふぅん。そんで、どこ行くんよ?」
「……京都」
「へえ――」

 僕たちが暮らす姫路市は、兵庫県の南西部に位置している。県単位で考えたなら隣同士の兵庫と京都だけれども、だからといって通学圏内だとは言い難い距離の壁があった。
 京都の大学に進むということは、まず間違いなくそちらに部屋を借りて暮らすということで。
 つまり、十年以上の付き合いになる我が幼なじみ殿は、この街から去ってしまうわけだ。
 唐突に突きつけられた事実に、僕は内心で困惑していた。
 そんなこちらを余所に、タケシは気の抜けた声で尋ね返してくる。

「ジロちゃんは?」
「俺? 俺は専門学校。ほら、駅裏の」
「ああ、美容師なるんやったっけ」
「いやまあ、"なりたいな"のレベルやけどな」

 より正確に言うなら"なれたら良いな"のレベルだ。あるいは"なれるかな?"かもしれない。

「……にしても、京都かあ」

ぼそりと呟く声をどう受け取ったのか、タケシはにやりと口元をゆがめた。

「寂しいか?」

 ふざけるな。そんな五文字が脳裏に浮かんだときには、僕の口からは大量の言葉が飛び出していた。

「アホ抜かせ。自分の顔なんか、とおの昔に見飽きとるっちゅうねん。清々するわ」
「……ほんまツッコミきついよな、自分。そんなやからカノジョ出来んのやで」
「どデカいお世話じゃボケ」

 吐き捨てるように零して、そこでふと気づいた。

「つうかよ、カノジョ言うたら自分――」
「……うん」

 悩ましげに眉根を寄せて、タケシは小さく頷いた。
 そう。タケシには恋人がいた。同じ学校の下級生で、付き合い始めてちょうど一年になる。
 ほとんど一心同体といって良いほど行動をともにしてきた僕とタケシだから、彼女と顔をあわせる機会も多かった。遊びに行こうと誘われてついていってみれば、そこには精一杯着飾った彼女がいて、これはもしかしてデートなのではないか、俺は邪魔者なのではないか、と居心地の悪い気分を味わったことも一度や二度ではない。とはいえ、お邪魔虫の僕にも彼女は嫌な顔ひとつ見せずに接してくれて、ああ、本当に良い子だなあと感激してしまうことしきりだったりもする。

「どないすんの? 別れる?」

 そう尋ねる僕の声には、自分でも理解できない不思議な感情が篭っていたような気がする。
 タケシのことは好きだ。今まで良い友人であってくれたと思うし、これからも仲良くやっていきたい。
 そして、そんな彼が彼女と幸せになるのなら、それはとても喜ばしいことだと思う。
 なのに、何故だろう。
 どうして僕は今、二人が破局することで生まれる"なにか"を期待しているのだろう。

「アホ言うな」

 すっぱりと切り捨てるタケシに、僕はなおも食い下がる。

「せやかてお前、遠距離恋愛はキツいぞ?」
「キツい言うてもそないに遠距離いうわけちゃうし。電車でニ時間やんか。会お思たらなんぼでも会えるよ」
「いやいやいや、充分遠いて。な、悪いこと言わんからこの辺でバイバイしとこうや」
「なんやねん、なんでそないに別れさせたがっとんや」
「いやほら、漁夫の利を狙おうかと」

 冗談、あるいはボケとして口にした言葉だった。
 タケシの耳にはそう聞こえただろうし、僕自身もそうだと信じ込もうとしていた。
 だけど――もしかしたら、冗談として済ましてしまえないようなものが、そこに含まれていたかもしれない。
 そんな僕の台詞に、タケシはぎょろりと目を剥いた。叫ぶ。

「ふざっ――ふざけんなボケっ! 誰がお前なんかにくれてやるか!」
「ちぇー」
「なに口尖らせとんねん! ぜんぜん可愛ないわっ!」
「ええやん。大学入ったらまた出会いもあるて。な? ここはひとつ俺に任せて新たな恋をやな――」
「イーヤーやっ!」
「そこをなんとか」

 へらへらと笑う僕に、タケシは面倒臭そうに手を振った。
 しっしと虫を払うような素振りとともに、疲れた声で言う。

「よそ当たれよそ。つうかカノジョくらい自分の力で捕まえろ」
「ちぇー」
「だから可愛ない言うとるやろが。とにかくあかん言うたらあかん。俺らの永遠のラブストーリーにお前の出番はない」
「うわ、クサっ。な、今のセリフもっかい言うて? 録音するから。な?」
「誰が言うかっ!」

 どつくぞボケ。
 そんな定番の罵り文句を喚きながら、タケシが腕を振り上げた。僕は慌てて逃げ出し、そして追いかけっこが始まった。もちろん本気の喧嘩じゃあないから、お互いに全力疾走というわけではなかったけれど。
 そんな僕らの馬鹿みたいなじゃれ合いは、「お前ら真面目に働けやっ!」という社員さんの怒鳴り声が店内に響き渡るまで、延々と続いていた。


 それが僕とタケシの最後の会話だった。


 ***


「……ふざけんなボケ」

 気がつけば、そんな罵り文句が口をついていた。
 永遠のラブストーリーじゃなかったのかよ。俺の出番なんてないんじゃなかったのかよ。
 なにやってんだよお前。なに事故ってやがんだよ馬鹿が。だからバイクなんか止めとけっつったんだ。
 幸い、僕の罵倒は彼女の耳には届いていないようだった。
 なにも気づかないままに、彼女はこちらの背中に顔を押し付けて、くぐもった声で呟いた。

「前に」

 すん、と鼻を鳴らす音。一瞬間を置いて、彼女は続きを口にした。

「前に、バイクの後ろに乗せてもらったことがあるんです」
「タケシに?」
「はい。朝の六時に電話かかってきて、今から海行こう言うて。……冬やのに」
「そのへん天然やったからな、アイツ」
「ですね」

 僕たちは声を合わせて苦笑した。

「あの時もこんなでした。落ちへんように必死でしがみついて――タケくんの背中から、こんな匂いがしてて」
「そっか」

 僕の相槌を最後に、会話が途切れた。
 背中から胸に回された彼女の手が、ひどく暖かく感じられる。
 歩道を歩くどこかのおばさんが、僕たちを見て顔を顰めていた。
 おおかた恋人同士がいちゃついているようにでも見えたのだろう。
 違うんだ。そんな言葉を大声で叫んでみたくなった。
 違う。僕たちはそんなんじゃない。
 僕はそうなりたいと望んでいたけれど、きっとその機会は永久に失われてしまった。
 彼女は僕の幼なじみの恋人で、そして、その幼なじみはもういない。
 普通に考えるなら、ある意味ではチャンスなのかもしれないけれど――。

「……センパイ、ちょっとだけ良いですか?」

 掠れ気味の声で、彼女が言った。僕は聞き返す。

「なにが?」

 だけど、彼女は質問には答えず、

「良いって言ってください」

 そんな理不尽を口にする。

「言ってください」

 ぐっと、こちらを抱きしめる腕に力が篭った。
 なんだろう。弱々しいと表現できる彼女の声なのに、どうしてこうも重く響いてくるのだろう。
 それはまるで命令のような、有無を言わせぬ強制力を感じさせて。
 だから僕は、

「……んじゃまあ、良いよ」

 そう答えることしか出来なかった。
 僕の返答に、彼女は安堵の混じる声で「ありがとうございます」と礼を述べた。
 そして、次の瞬間。

「アホ――」

 彼女の口から、実に分かりやすい罵倒が溢れ出した。
 そう、溢れ出したと表現するのが一番ふさわしいと思う。
 堰を切って怒涛を成す彼女の声は、先ほどまでとは一転して、ひどく荒々しく。
 そして、痛切なまでの悲哀に満ちていた。

「タケくんのアホ! ボケ、カスっ! 死んでまえドアホ――なに勝手に死んでんねんっ!」

 僕は無言でペダルを漕ぎ続ける。

「なにしょんねんダボ、旅行行くんちゃうんか。大学受かったら一緒に旅行行くんちゃうかったんか!」

 僕は無言でペダルを漕ぎ続ける。

「"これからは遠距離恋愛やな"て――アホかっ! 遠過ぎるわ! どんだけ遠くまで行ってんねん!」

 良いツッコミだな、なんて感想を抱きながら、そんなことを考えた自分に苦笑しながら。
 僕は無言でペダルを漕ぎ続ける。

「アホ……ドアホっ……」

 僕は無言でペダルを漕ぎ続ける。
 背中には温かな感触。この柔らかさが自分のために存在するものなら、どれほど素晴らしかっただろうか。僕は思う。もしタケシが生きていれば、と。あいつが生きていて、当初の予定通り京都の大学に進んでいれば。そうすれば、もっと違った展開も有り得たんじゃないか。
 そりゃあもちろん僕は"タケくんの友達"に過ぎないから、横からちょっかいを出したところで彼女が振り返ってくれることなんて無かっただろうし――そもそも、親友の恋人にちょっかいを出せるような根性は僕にはないけれども。
 そんな状況でも、少なくとも今よりはマシだったと思う。"もしかしたら"を期待することだけは出来たから。
 でも、今はもう、それすらも有り得ない。
 卑怯者。自分の事を棚に上げて、僕は内心でタケシを罵った。
 あいつは卑怯だ。死人には絶対に勝てない。僕がどう振舞おうと、彼女にどう声をかけようと。
 なあ、タケシ。
 お前の彼女さ、こんな風になっちゃっても、やっぱりお前のことが好きみたいだ。
 俺の匂い嗅いで、「タケくんと同じ匂い」だとさ。
 俺に背中から抱きついて、「タケくんのアホ」だとさ。
 ふざけんなって話だよな。
 この子、お前のことしか頭に無いよ。
 なあ、おい。
 ずるいよ、タケシ。





 僕は無言でペダルを踏みしめる。
 きぃきぃと、軋んだ音が辺りに響いていた。




目次