あなたたちに似ようとしたのは、人恋しくてたまらなかったから


■お姉ちゃんのいやがらせ

 美咲姉さんからメールが届いたのは、卒業式から半月ほど経った、ある日曜日のことだった。
 美咲姉さんは一八歳で、先週まではウチの高校の最上級生の一人で、ほとんど姉弟みたいに育った、僕の幼馴染で。
 そして、僕の初恋の人だった。

 『会いたいです。神社まで来てください』

 タイトルは無く、本文もたったそれだけの、本当に短いメール。
 いつもみたいな絵文字も顔文字も、そこには記されていなくて。
 あまりにもそっけないその文面に、僕は思わず差出人を再確認してしまったほどだった。

「……困ったな」

 携帯電話の画面を睨みながら、僕は独り言を漏らした。
 今日は人と――この歳になってようやく出来た、初めての恋人と会う約束をしていた。
 付き合い始めて一ヶ月。周りの連中に言わせるなら、今が一番危ない時期、ということらしい。
 連中の主張が一般的に通用するものなのかどうかは分からないけれど、少なくとも僕ら二人には見事に当てはまっていた。
 今の僕たちは、確かに危機と隣り合わせの状況にあった。
 きっかけがなんだったのかはもう覚えていない。たぶん彼女も忘れてしまっていると思う。
 とにかく、僕たちは口論をした。そして彼女が泣いた。僕は困り果てて、こともあろうにその場を逃げ出した。
 当たり前のことだけれど、次の日から彼女は口をきいてくれなくなった。
 友人連中は、全会一致で「お前が悪い」と判決を下した。悲しいことに、僕自身も「そりゃそうだよな」と納得してしまっていた。
 そういうわけで、なんとか和解を目指して必死に謝り倒し、アプローチをかけ、そしてようやく得られた名誉挽回のチャンスが、今日のデート(向こうがそう思ってくれているかどうかは分からないけれど)というわけだった。
 スパムばりの勢いで謝罪のメールを送り続けて、話し合おう話し合おうと壊れたスピーカーのように連呼して、やっとのことで手に入れた今日という機会。この機を逸してしまったら、僕たちの関係は、とても興味深いことになってしまうだろう。

 『ごめん、今日はムリ』

 常識的に考えて、僕は美咲姉さんに、そんな内容のメールを返すべきなんだろう。
 どんな用事なのかは知らないけれど、話したいことがあるのなら日を改めてもらえば良い。
 幸い僕らの家は隣同士だったから、その気になれば話す機会はいくらでも作れるはずだった。
 そこまで考えて、ふと気づいた。そういえば、ここしばらく美咲姉さんに会っていない。
 最後に会ったのは卒業式の当日で――そう、確かあのとき、出来たばかりの彼女を紹介したんだっけか。

"おー、そっかそっか。とうとうキミにも春が来たんだねー"

 互いの名前をちゃん付けで呼んでいたころと変わらない、あからさまにお姉ちゃん風を吹かせた態度で美咲姉さんは笑っていた。
 やけに嬉しそうなその表情に、照れ臭さと同時に、ちょっとした寂しさを感じた覚えがあった。
 たぶん僕は期待していたんだと思う。もしかしたら、焼餅のひとつくらいは妬いてもらえるんじゃないかって。
 でも美咲姉さんは全然そんな素振りを見せてくれなくて、やっぱり僕は彼女の"弟"でしかないんだと、改めて実感させられてしまった。
  
 ――恥ずかしいこと思い出しちゃったな。

 内心で苦笑して、僕は携帯電話を放り出した。なんだかメールを書くのが面倒になってきていた。
 と、それほど勢いよく置いたつもりはなかったのに、ぽろりと電池部分のカバーが取れてしまった。

「ありゃ」

 そういえば、最近フタが緩くなってきてたんだっけか。
 でも、堅い机の上に落としたならともかく、僕が今寝転がっているようなベッドの上に投げたくらいで外れてしまうなんて。
 二年近く使ってきたわけだし、流石にそろそろ買い替え時なのかもしれない。
 今度はテレビが観られる機種にしようかな、なんてことを考えながら携帯を拾い上げて、そして、ある一点に視線が止まった。
 電池カバーの裏側。普段は誰にも見られないようになっているその部分に、一枚のプリントシールが貼ってあった。

「――あ」

 写っているのは、僕と美咲さんのツーショット。
 僕の入学祝いに携帯電話を買いに行ったとき、「ついでだから」と美咲姉さんに誘われて撮ったものだ。
 目立つ場所に貼るのが恥ずかしくて、だけどどこにも貼らなかったら怒られそうで。
 だから妥協案として、誰にも見られないようなこの場所に貼り付けたんだった。

「あーあーあー。そうだ、これだよこれ」

 思い出したのはプリントシールの来歴だけではなかった。
 この写真を撮ってから二年弱後、同じようなイベントが今の彼女との間に発生していた。
 相変わらずこういうものに照れ臭さを感じていた僕は、またしても前回と同じ行動を取ろうとして。
 そしてカバーを外したところで、間の悪いことに、そこに貼ってあるものを彼女に見られてしまった。
 そうだ。それが今回の喧嘩の原因なのだった。

「なんだよ、姉さんの所為なんじゃないか」

 実際は僕の不注意が原因なのだけど、とりあえず責任転嫁しておくことにした。
 僕は撮りたくなかったのに、無理やりゲーセンに引っ張り込んだ美咲姉さんが悪い。うん、そういうことにしておこう。
 となると文句のひとつも言ってやらなければならないだろう。
 やい姉さん、アンタのせいで破局の危機なんだぞ。どうしてくれる。

「よし」

 僕は勢いを付けてベッドから起き上がった。そのまま窓際まで歩いて、シャッと音と立ててカーテンを開く。
 そこから見えるのは、隣の家の二階の概観だ。白い壁、煉瓦色の屋根瓦、そしてとある部屋の窓。
 桜色のカーテンで内部を隠したそこは、美咲姉さんの部屋だった。
 あの人は自分が部屋にいるときはカーテンを開けっ放しにしておく人だから、今はきっと外出中なんだろう。
 つまり、もう神社にいるか、向かっている最中ということだ。
 それだけ確認してから、僕は机の上の置時計に視線を転じた。
 現在の時刻は午前一○時三三分。彼女との待ち合わせは駅前で一三時の予定だから、多少は時間の余裕がある。

「――よし」

 僕は先ほどの掛け声をもう一度繰り返した。
 会いたいっていうなら会ってやろうじゃないか。そのかわり、こっちの文句も聞いてもらうぞ。
 最近はストレスまみれの毎日だったから、ここらでひとつ、発散させてもらおう。


 *** 


 足を踏み入れた境内は、ひどくがらんとしていた。
 学問の神様が祀られているとかで、受験シーズンは学生連中でごった返す神社だというのに、今は全く人気がない。
 寒々しいその様子に、どいつもこいつも薄情者だな、なんて下らないことを考えてしまった。
 だってそうだろう?
 困ったときだけカミサマホトケサマと拝み倒すくせに、時期が過ぎたら目もくれないなんて、ちょっとひどすぎるじゃないか。
 いやまあ、僕だって特に信心深い人間ってわけじゃないんだけれど。
 自分のことは棚に上げて、無神論者の国の現状に憤りつつ、僕は境内を見回した。
 五○段ほどの低い石段を登った上にあるこの神社は、かつてはこの辺りの子供達の格好の遊び場だった。
 かつて、といってもそれほど昔の話ではない。僕や美咲姉さんが小学生だった自分のことだ。
 石段でチョコレート、本殿の周りでかくれんぼ、境内の広場で鬼ごっこ。裏の斜面で段ボール乗りもしたっけ。
 最近の子供はああいう遊びはしないのかな、と寂しく思ったところで、

「ね、嫌がらせして良いかな」

 唐突に、そんな言葉が耳に飛び込んできた。

「え?」

 振り返った先には、大きなクスノキが一本。境内の隅に植えられた、樹齢数百年になる大木だった。
 ああ、この木も僕らの遊び道具だった。よく木登りをして宮司さんに怒られたもんだ。ご神木というほど大したものではないけれど、それでもなかなかに由緒のある木らしくて、宮司さんのお説教の締めくくりは、いつも「さあ、木の神様に"ごめんなさい"しなさい」だった記憶がある。
 そんな立派な木とはいえ、さすがに唐突に喋り始めるはずはなくて。ぼんやりと見つめる僕の視線の先、大人五人が輪にならないと抱えられない太さの幹の背後から、ひらひらと白いなにかが顔を覗かせていた。

「なにしてんの、美咲姉さん」

 もしかしてかくれんぼのつもり?
 苦笑いしながら尋ねると、数秒の間をおいて、彼女はその姿を現した。
 少しだけ脱色した長い髪、女の子の割に高い身長、食べても食べても太らないとこぼして女友達から総スカンを喰らったという痩せっぽちの身体。あまり似合っていないセルフレームの眼鏡は、今日はかけていない。
 ともあれ、クスノキの影から現れたのは、僕にとっては両親同様の長い付き合いになる、お隣の"お姉ちゃん"だった。
 先ほど僕の目に留まったなにかは、彼女が首に巻いたマフラーの色だったらしい。 
 おはようと挨拶するべきか、それとも久しぶりと言うべきか。
 そんなくだらないことで悩む僕に、美咲姉さんは小さく微笑みかけた。
 軽くゆがめられた唇が妙に肉感的で、そこで初めて、僕は彼女が化粧をしていることに気づいた。

 ――なんだろう。

 今日の美咲姉さんは変だ。
 メールの文面のそっけなさといい、たかが幼馴染と会う程度のことなのにメイクまでしていることといい、どうにも普段の彼女とは印象が異なっている。だいたい、中学校に入って以来ほとんど訪れたことのなかったこの場所に、わざわざ呼び出してきた時点でなにかがおかしい。
 いぶかしむ僕を余所に、美咲姉さんは言葉を続ける。

「嫌がらせっていうか、八つ当たり? ひょっとしたら正当防衛かも。とりあえず悪足掻きじゃないことは確かだけど」

 言いながら、姉さんはゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
 一歩、また一歩と、なにかを確認するような丁寧な足取りで。
 やがて彼女は僕の目の前まで辿りつき――だけど、そこでは立ち止まらなかった。

「なにを――」

 口を開こうとした僕に、姉さんは自分の唇に人差し指をあてることで答えた。
 黙ってろ。つまりはそういうことなんだろう。
 姉さんはさらに歩く。僕の隣を通り過ぎ、おそらくは背後に回り――そして。

 春物のジャケット越しに、僕の背中に暖かいものが触れた。

 情けないと自分でも思うけれど、最初に感じたのは、ほとんど恐怖に等しいような驚きだった。
 びくりと身体を震わせる僕を宥めるように、背中に新たな感触があった。
 こつん、と。首の付け根あたりにぶつかったそれは、きっと美咲姉さんの頭なのだろう。
 それは分かる。分かるのだけれど――なんで姉さんがこんなことをするのかは、分からない。

「だから、なにを――」

 僕は尋ねる。
 その返答は、背後から回された腕が、ぎゅっと身体を抱きしめる感触と、そして、


「君の事が好きです。幼馴染とか友達とか、そんなんじゃなくて。男の子としての君が好きです」


 ……そんな、笑えもしない言葉だった。

「なっ――」

 唐突に、喉に渇きを覚えた。
 口を開く。だけど声が出ない。ぱくぱくと金魚のように滑稽な表情。
 苦労して、苦労して、そしてようやく一言だけ、言葉を発することが出来た。 

「なんだよ、それ」

 その一言が、たぶん堤防代わりだったんだろう。

「なんだよそれっ! なんなんだよっ!!」

 続けて僕の口から飛び出したのは、自分でも驚いてしまうくらいに大きな叫び声だった。
 先ほどまでの圧迫感が嘘のように、僕の喉はその機能を回復させていた。

「なんで、今さら、そんな……!」

 付き合い始めて一ヶ月の、今は喧嘩中の恋人の顔が、
 彼女を紹介したときの、美咲姉さんの愉快げな笑顔が、
 一ヶ月目の危機を語る友人たちのにやにや笑いが、
 お前が悪いと声を揃えるクラスメイトたちの呆れ顔が、
 まるでサブリミナル映像みたいに、物凄い勢いで脳裏に瞬いた。
 僕は背中から回された腕を振り解こうと、身体をよじらせる。
 だけど、傍目にはか細いとしか見えない姉さんの手は、何故だか一向に離れてくれなくて。

「うん、今さらだよね」

 狼狽する僕を落ち着かせるように、姉さんは穏やかな声で言った。
 続けて、からかうみたいに笑ってみせる。

「言ったでしょ? 嫌がらせだって」

 分からない、とかぶりを振る僕に、姉さんは少しだけトーンを落とした声音で言う。

「やっぱりさ、自分の大事なものを他人に掻っ攫われるのって、あんまり良い気分じゃないよね」

 だから、嫌がらせ。そう呟く姉さんの声は、自嘲めいた響きを含んでいた。大事なもの。その言葉にこめられた意味は、なんとなく想像がついた。
 確かに僕は「鈍い」だの「頼りない」だのと友人連中にからかわれるような人格の持ち主だけど、いくらなんでも、ここまではっきり言われて理解できないほどに可哀想な脳味噌をしているわけじゃない。
 だけど、いや、だからこそ。

「だったら……だったら、なんで、もっと早く……」

 そう。それが分からなかった。
 なんで伝えてくれなかったのか。
 なんでそういう素振りをみせてくれなかったのか。
 なんで――なんであの日、あんなふうに笑っていられたのか。

「そうだね。こんなことならさっさと告白しとけばよかった」

 困惑する僕とは裏腹に、姉さんは実にあっさりとした、笑みすら混じる声で頷いた。
 そんな態度が、あの日のそれと被って感じられて。
 何故だか分からないけれど、僕は衝動的に姉さんの腕に触れようと――

「駄目、だよ」

 その言葉で、こちらの手の動きが止まった。
 自分でも根拠に欠ける想像だとは思うけれど、たぶんきっと、今が最後の機会だったんじゃないだろうか。なにに対する、どんな機会なのかは分からない。分かってはいけないと思う。だけど、それがなんであったにせよ、僕はなにかを手に入れ、なにかを失うチャンスを手放してしまった。絶望なのか諦観なのかはっきりとしない感覚とともに、僕はそんなことを考えた。

 ――姉さんの腕が、ゆっくりと、惜しむような速度で解かれた。
 背中に、首筋に触れた暖かさが、悲しくなるほど穏やかに離れていく。
 そして、僕が姉さんの体温を完全に見失ってしまった頃になって。
 とん、とん、と、軽く肩が叩かれた。――こっちを向いて良いよ。そう言われている気がした。
 僕は振り返る。そこには、からかうような笑みを浮かべる美咲姉さんがいた。姉さんは言った。
 
「ていうか返事もらってないんだけど。その辺どうなのかな?」
「……なにが?」
「『好き』に対するお返事(レスポンス)。キミはどうなの? あたしのこと好き? 嫌い?」

 その問いに、僕は一瞬言葉に詰まった。口にしてしまって良いのだろうか。この問いに答えることは、数時間後に顔を会わせるはずの彼女に対する裏切りにならないだろうか。いや、そもそもこんなことを考えている時点で、僕はどうしようもなく――。

「嫌いなわけ、ない。好きだよ――好きだった」

 そんな葛藤とは裏腹に、僕の口からは、すんなりと答えが零れ落ちていた。
 言ってしまってから愕然とした。おい、僕は今なんといった?
 ――好き"だった"だと?

「そっか。両想いだったんだ、やっぱ」

 言葉の意味に気づいていないのか、あるいは理解したうえでの態度なのか。
 姉さんはかすかに頬を綻ばせて、小さく頷いてみせた。そして、誰にとも無く問いかける。

「なんだろね。根性無しのあたしが悪かったのかな。それとも天邪鬼なキミが悪かったのかな」

 答えようなどなかった。きっと姉さんの方も返事なんて期待していないだろう。そんな気がした。
 しばらく無言でこちらを見つめた後、姉さんはなにかに区切りをつけるみたいに、おどけた態度でこちらを指差してみせた。

「うん。こないだも言ったけれど――おめでとう。彼女と仲良くしなよ?」
「言われなくても」

 そのつもりだ、と返そうとして。僕は内心で苦笑してしまった。
 仲良くもなにも、今の僕らは破局の危機の真っ只中にあるんだった。
 最初はそのことについて文句を言うつもりでやってきたというのに――まさか、こんなことになるなんて。
 世の中って分からないなあ。
 どこかで聞いたような感想を抱く僕を余所に、姉さんはぺこりと頭を下げた。
 
「――ごめんね、なんか変なことに付き合わせちゃって」
「いや……うん」

 曖昧に口ごもっているうちに、姉さんはこちらに背を向けてしまっていた。
 「じゃあね」と背中越しに手を振る彼女に、僕は無意識のうちに声をかけていた。

「――美咲姉さん」

 ん? と。姉さんは顔を半分こちらに振り向かせた。
 透けるように白いその頬を見つめながら、僕は尋ねようとする。

「なんで、こんな――」

 だけど、上手く言葉が出てこなくて。
 それでも、姉さんはこちらの言いたいことを察してくれたらしい。
 かすかに肩を揺らして、困ったように眉根を寄せた。

「……うん。あたしも分かんない。なんでこんなことしたんだろう」

 小首をかしげ、かぶりを振り、天を仰いでみせたかと思えば、今度は足元に視線を落とす。
 そんな忙しない態度が、以前の――卒業式のあの日までの、いつもどおりの美咲姉さんを思い出させた。
 奇妙な安堵を覚える僕の顔に、姉さんはふ、と視線を向けた。 

「キミのこと、好きなのにね。幸せになってもらいたいとか、ずっと笑顔でいてもらいたいとか、そんな甘ったるいこと考えてたのに」

 くりくりと丸い瞳に浮かぶ感情の色に耐えられなくて、僕はついつい目を逸らしてしまう。
 どうにもやりきれないような思いで胸がいっぱいだった。この感情はどう名づけられるべきものなのだろうか。
 分からない。分からないままに、僕は大きく息を吐く。
 そして姉さんは言った。
 疲れているような、悔やんでいるような、だけど安堵しているような声で。

「なんで最後の最後で、泣かせるような真似するだろう。小学生じゃあるまいし」
「……泣いてねえよ」

 そう、僕は泣いていない。泣いているわけがない。……絶対に、泣いてやるもんか。
 歯を食いしばる僕の顔を見て、姉さんは悲しそうに微笑んで、

「ごめんね」

 眉根を寄せて、言った。

「もうこんなことしないから。泣かせたりしないから。――もう、会わないから」

 だから。

「だから、キミも。キミのためとかそういうんじゃなくて……あたしが辛いんだ」

 だから、ごめん。
 瞳を閉じて、姉さんは笑う。

「それと――いままで、ありがとう」



 ***


 その日の午後、美咲姉さんは旅立って行った。
 僕には全く知らされていなかった事実なのだけれど、姉さんは高校卒業後、進学するために家を出ることになっていたらしい。
 そして、僕を呼び出したあの日こそが、この街で過ごす最後の一日だった。
 姉さんの進学先は都内の美術大学で、僕らが暮らすこの街からは、そうそう気軽に訪ねられるような距離にはない。
 女の子の一人暮らしを姉さんの両親は歓迎していなかったけれど、将来は建築方面のデザイナーになりたいという彼女の夢をかなえるには、その大学に入るのが一番の近道だということで、強く反対することも出来ず送り出すことになったという。

 僕と恋人の顛末はといえば、幸い、今もそれなりに良好な関係を保つことが出来ている。
 約束の場所に現れた僕の顔色は、喧嘩中の彼女さえも心配させてしまうような有様だったらしい。後日になって「実はね、あの日"別れよう"っていうつもりだったの」などと恐ろしい台詞を吐いてくれた彼女だけれど、見るからに憔悴した僕の世話を焼いているうちに、話を切り出すタイミングを失ってしまったんだそうだ。

 その話を聞いて、僕は思わず吹き出しそうになってしまった。
 経緯はどうあれ、美咲姉さんは僕と彼女の関係を守ってくれたのだ。
 あの日姉さんと会っていなければ――姉さんと話していなければ、僕はきっと、普通の顔をして恋人の元を訪れただろう。
 そんな僕に対し、彼女は予定通りの言葉を投げつけたはずだ。別れよう、と。

 どうしたものだろうか。
 あれだけ僕の心を引っ掻き回してくれた美咲姉さんに、僕は感謝しなければならないんだろうか。
 いや、それ以前に――僕はあの日、美咲姉さんになんと答えるべきだったんだろうか。
 もしも僕が、彼女ではなく姉さんを選んでいたなら、今頃はどうなっていたんだろう。
 姉さんの進学は? 僕たちの関係は? そして、将来は?

 あの告白から四ヶ月、僕は未だにそんなことばかりを考えて暮らしている。
 こんなのって、けっきょく一人で考えたって答えの出ない問いだろうとは思うけれど――。
 それならそれで、別に構わない。
 そんなことを、思った。




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