#傷跡 第一話
ラブレターをもらった。
登校したときには、机の中に封筒が放り込まれていた。
自慢にもなんにもならないけれど、生まれて初めての経験だ。
この学園に入学して半年。
特に目立つことをした記憶もないし、特定の女の子と仲良くした覚えもないのに。
ぼんやりそんな事を考えながら、俺はその手紙をまじまじと見つめた。
放課後の教室。日直の仕事でひとり残った俺を除いて、他の連中は皆帰るなり部活へ行くなりしていて、幸いなことに誰かに見咎められる心配はせずに済んだ。正直言って助かる。こんなモノを悪友どものうちの誰かに見られた日には、どれだけからかわれるか分かったものじゃない。
馬鹿どもに冷やかされる自分を思い描きながら、俺は手の中の手紙に再度視線を落とした。
いかにも女の子っぽい感じの白い封筒に、繊細な文字で「吉河さんへ」。
開けて中を読んでみれば、簡潔な文章で「放課後屋上で待ってます」とのこと。
「……うーん」
なんていうか、あからさまに嘘臭い。よくあるパターンの悪戯の匂いがする。
うきうきどきどき舞い上がった俺が屋上に行ってみると、そこにはクラスメイトたちの姿。
――うわ、マジで来たよ。
――だっせー。
――そんなに飢えてたのかよ、吉河。
「うわ……めちゃくちゃ有り得るなそれ」
自分でも嫌になるくらいリアルな未来予想に、思わず呻き声が漏れた。
少なくとも、今までの人生で彼女なんていた試しのない俺がラブレターを貰う、なんてシチュエーションに比べればはるかに現実的だ。というか、そう思えてしまえる自分が悲しい。
「やっぱ悪戯、だよなあ」
なんとなく苦笑しながら、俺は手紙をポケットに突っ込んだ。
そして、カバンを手に教室を出た。
俺は至って平静ですよ、なんにも気になることなんてないですよ。
そんな風を装いながら廊下を歩き、そして階段へと辿り着く。
一歩立ち止まって、また周囲を見回す。誰もいない。安堵の息が漏れる。
「……悪戯だ。きっとそうだ」
全部わかってるんだ。こんな幼稚な手に引っかかるもんか。
そんなことを、誰にともなく言い聞かせて。
俺は、階段を――――登った。
「ま、暇つぶしにはなるし」
薄暗い階段を早足にならないよう自制しつつ上がっていく。
一歩一歩を踏みしめながら、俺は自分自身に予防線を張り続けていた。
悪戯だったらその時はその時。照れ笑いのひとつも浮かべてやればいい。
なにも本気で腹を立てるようなことでもないのだし、と。
――だけど、それでも俺の脳みそは、悪戯でない場合の事を考えている。
そう。問題は……問題は、これが本物のラブレターだった場合だ。
相手が誰かも分からないのに、こんなことを考えるのもどうかと思うけど。
だけどもし、その相手が本当に俺のことが好きだったりしたなら。
俺はどう答えるべきなんだろう?
軽いノリでつきあい始めれば良いんだろうか。
それとも――断るべきなのか。
俺だってリビドー全開爆走中、思春期真っ最中の若者だ。
女の子に好きだって言われれば嬉しいし、付き合いたいとも思うし。
……ぶっちゃけた話、セックスとやらだってしてみたい。
別に開き直るわけじゃないけど、それが俺の、否、この年頃の男たちの本音である。
だけど、それでもやっぱり躊躇ってしまう。
相手のことを知っているなら良い。今までの付き合いで判断出来る。
けれど、あまり話したことのない子だとか、全く知らない子だったりしたら……。
相手のことをよく知りもせずに返事をするのは、ちょっと不誠実なんじゃないかと思う。
「……って、なんか妄想じみてるなおい」
屋上へと続く階段を昇りながら、自分にツッコミを入れる。
なんだかんだ言って期待しまくっている自分が恥ずかしい。
……まあアレだ。
とりあえずは屋上に行ってみてからの話だ。
悪戯か本気か。知り合いか赤の他人か。
その辺りも引っくるめて、実際に会ってみてから考えよう――。
そしてたどり着いた屋上。
夏も終わり、吹く風には秋の気配が混じり始めている。
夕暮れ時には少し早い時間帯。日は傾きつつあるけれど、周囲はまだまだ明るい。
「ええと、どこだ?」
きょろきょろと辺りを見回してみる。
心臓はいつの間にかバクバクと鼓動を高めていて、
なんだこりゃ、俺ってこんなに純情だったっけというような感じ。
……いやもう、駄目だなこりゃ。
あれだけ自己弁護しておいてこんな事を考えるのはどうかと思うけれど、
もしこれで悪戯だったりしたら、本気で腹を立ててしまいそうだ。
なんだかんだ言って――俺はこの状況にすごく期待しているらしい。
「――あ」
そして、見つけた。
オレンジ色に染まる屋上の端。フェンスにもたれ掛かるようにして立っている女の子。
ちょっと遠くて顔まではよく見えないけれど、知らない子だってことは分かる。
俺の知り合いにあんなに髪の長い子はいなかったはずだ。
「ええ、と」
何故か足音をひそめてそちらに近づきながら、俺はどう声をかけようか悩んでいた。
相手は考え事でもしているのか、まだ俺の存在に気づいてはいないらしい。
ていうか、人違いじゃないよな? 他に人気はないし。
この子が――あのラブレターをくれた子、なんだよな?
と。あと数歩で手が届く辺りまで近づいたころになって、その子がようやくこちらに気づいた。
気の強そうな吊り目がちの瞳と、正面から視線がぶつかる。
「あー、いや、その」
意味もなく言葉を濁す俺。
緊張しすぎだバカ、なんて自分に文句を言ってみるけれど、だからってどうしようもない。
なにか意味のある台詞を口にしたい。だけどそんなもの思いつかない――。
そんな無様な俺を怪訝な表情で見つめて、女の子は言う。
「なんで、キミが来るの?」
「……は?」
思わず間抜けな声が漏れた。
なんでと言われても、机の中に手紙が……ラブレターが入ってたからなんですが。
「学くんは?」
「え……いや、兄貴はもう帰ったと思うけど……?」
正直に答えてしまう俺。
ちなみに学というのは、俺の二つ年上の兄の名前だ。
彼も俺と同じくこの学園に通っていて、ときどき食堂で昼飯をおごってもらったりする。
「……そっか。帰っちゃったんだ」
女の子は寂しげに呟いて、小さく溜息を吐いた。
その仕草が妙に色っぽくて、俺は思わずまじまじと見つめてしまう。
見覚えのない顔だと思う。
制服のリボンは緑色。俺と同じ一年生だ。
だけどウチのクラスの人間じゃないし、他のどこかで会った記憶も……。
(――いや、あれ? なんか、どっかで見た気が――)
腰の辺りまである綺麗なストレートの黒髪と、ぱっちりとした瞳。
それほど高くない身長と、出るところは出た女の子らしい体型。
総合して美少女と呼んでも誰も文句は言わないであろうこの女の子を、俺は確かに、どこかで――。
「ありがとね、輝くん」
「……え、はい?」
突然名前を呼ばれて、俺は我に返った。
女の子はこちらを見つめて、優しく微笑んでいた。
「それと、ごめん。わざわざ教えに来てくれて」
小さく苦笑して、そう謝ってくる女の子。
……正直、何がなんだか分からない。
だから俺は、とりあえず彼女に聞いてみることにした。
「なあ」
「ん? なに?」
「あの手紙って……俺宛てじゃなかったの?」
「――は?」
今度は彼女が目を丸くする番だった。
女の子は大きく目を見開いて、ぱくぱくと魚みたいに口を開け閉めしたあと、俺を指差しながら大声で言った。
「な、なにそれっ!! なんでアタシがキミにラブレター出すわけ!?」
「いや、なんでって言われても。机ん中に入ってたし」
素で答える俺。……ていうか、大体状況が飲み込めてきた。
つまりはこういうことか。
こいつは自分で直接兄貴に手紙を渡す勇気が出なくて、それで俺を代理に立てようとしたってことか。
「ちょっと待ってよもう! そんなの無しだよ! 有り得ないよぉ!!」
「有り得ないとか言うな。失礼だろ、俺に」
というか、そこまで全力で否定されるとさすがに傷つきますので。
「じゃ、じゃあ手紙は――」
「俺が読んだ。だから俺が来た。そんだけ」
簡潔に言葉を返してやると、女の子はとうとう地団駄を踏みだした。
いやいやいや、いちいちリアクションの大きいヤツだ。
「なになになになになにそれぇ!? 有り得ない有り得ない絶対有り得ない!」
「いや、だからそんな連呼すんな。本気で腹立ってくるから。 ……つうかさ、あんな風に置かれてたら、普通自分宛てだと思うだろ?」
「思わないよ! だって一緒にメモ置いといたでしょ? 『すみませんけど、この手紙をお兄さんに渡してください』って!」
「え……いや、知らんけど」
そんなのあったっけ?
まったく身に覚えがないのだけれど。
「入れたよ絶対!」
「あー……いや、どうだったかな」
まあ確かに、あの時は手紙に気を奪われていたから。
だから、たとえそんなメモが添えられていたとしても、気づきはしなかっただろう。
それ以前に俺の机の中ってグチャグチャだから、紙切れ一枚紛れ込んだところで運良く見つけられるとは思えないし。
「……うっわあ。なによそれ。信じらんない」
「……悪かったよ。帰ったらすぐ兄貴に渡すから、明日またリトライしてくれ」
とりあえず、ここはこちらが折れることにした。
本当にメモが入っていたというなら、この状況は確かに俺の早とちりのせいだ。
ぶっちゃけた話、たとえば下駄箱に入れておくなりなんなり、兄貴に間接的に手紙を渡す方法なんていくらでもあるっていうのに、わざわざ俺を経由する意味が理解出来ないのだけれど、でもまあ、間違いは間違い、失敗は失敗。この場合、悪いのは俺なんだろう。
そんなオトナな思惑を胸に、俺は頭を下げた。
だけど女の子はなおも頬を膨らませて文句を言う。
「……っとにもう。こっちが色々覚悟決めて来たっていうのにぃ……」
「だから悪かったってば」
「悪かったで済んだら警察も軍隊も大岡越前も要らないよ。頭下げるだけならコメツキバッタにだって出来るんだから」
ぽんぽんぽんぽんテンポよく罵声を吐き出す口元を、半ば呆然と見つめながら、俺は感心したような口調で呟いた。
「……いや、お前口悪いなおい」
そんな俺の言葉に、女の子は眉をさらに吊り上げた。
やば、さらにご機嫌悪化ですか。
なんだかもう親の敵でも見るような目で俺を睨み付けてきてるんですが。
「えーえー。どうせアタシは性格ブスですよ」
「いや、そこまでは言ってないが」
「……ていうか、そもそもそっちが悪いんじゃない。他人宛の手紙に勘違いしちゃって。キミって注意力散漫っていうか、ガツガツしすぎ」
かちんときた。
「ガツガツしてて悪かったな。どうせ俺は彼女いない歴=実年齢だよ」
「へ……ウソ?」
そこで問い返すな。驚くな。恵まれない子供たちに向けるような視線で俺を見るな。
……明らかに「うわ、悪いこと言っちゃったー」というようなバツの悪い顔を見せる彼女に、俺は小さく肩をすくめてみせながら答える。なんだかもうどうでもいいや。
「ウソだったら幸せなんだけどな。いやほんとに。同じ兄弟っつっても、残念ながら俺には兄貴みたいに可愛い彼女なんて――」
――ん? 彼女?
「あ」
思わず間の抜けた声が漏れた。
俺は……なんだか致命的な事実を忘れていたのかもしれない。
そうだよ。ラブレターうんぬんの前に、そもそも兄貴って――。
「え、あれ? どうしたの輝君。急に顔色悪くなったよ?」
心配と驚きが入り交じった表情で、こちらの顔を覗き込んでくる女の子。
ていうかどうしよう。すごく言いづらいことなんだが。
……だけど、このまま知らんぷりするわけにもいかないし。
仕方ない、と覚悟を決めて。
俺は唾を飲み込んで、腫れ物に触るみたいな口調で言う。
「なんつうか、その……落ち着いて聞いてくれな」
「え? う、うん」
真剣なこちらの口調に釣られてか、女の子も真面目な顔でこくこくと頷いた。
その白い顔に向けて頷き返しながら、言う。
「兄貴な、もう付き合ってる人がいるんだわ」
「………………え?」
ぽかんとした顔を見せる彼女。
ああ。いったいは何度、この子にこんなアホ面をさせなきゃならないんだ?
そんな下らないことを考えながら、俺はぺこりと頭を下げた。
「いや、ホントに申し訳ない――って、俺が謝ることじゃないんだけどさ。うん。……彼女、いるんだ。あいつ」
「……そう、なんだ」
頭を掻きながら言う俺に、女の子は小さく震える声で応える。
その声色には紛れもなく悲しみの色がこめられていた。
……なんだか自分がひどく悪いことをしているような気になる。
手紙の件に関してならともかく、兄貴に彼女がいることは、少なくとも俺の責任じゃない。
だけど、目の前の女の子にこんな辛そうな声を出させてしまったことが申し訳なくて。
だから俺は彼女がそれを求めるなら、何度でも頭を下げようと誓った。
「なぁんだ、そうなんだー。あはは」
突然女の子は笑い出した。
誰が聞いたって空元気の作り笑いだとバレてしまうような、そんな痛々しい声で。
嘘臭いハイテンションを維持したまま、彼女は自嘲の言葉を吐く。
「バカみたいだよね、アタシ。一人で盛り上がって、一人でどきどきして」
その言葉に対して、俺もまた無理矢理作った笑顔で答えを返した。
「いやいやいや。それでバカだって言われたら俺だってバカなんだけどな。兄貴に行くはずのラブレター、自分宛てだって勘違いしてどきどきしてたわけだし」
「あはは、そうだね」
「そうだよ」
「じゃあアタシたち、馬鹿同士ってわけだ」
「おう。これがホントのバカップルだ! 別にカップルじゃないけどな!」
「あはははははははははは!」
「ははははははははははは」
顔を見合わせてバカみたいに笑いながら、思う。……なんだか虚しいと。
だけど、こうでもして気分を明るくしないとやってられないのも事実だ。
俺も、彼女も。
こういうのってすごくやるせないとは思うけど、どうしようもないことだし。
誰かに文句を言うことも、誰かを憎むことも出来ない類の悲しみ。
それに対して俺たちみたいなガキが出来ることなんて、虚勢をはることくらいしか無い。
そうやって、しばらく意味もなく笑い合って。
そろそろ嫌になってきたころ、彼女が不意に声を落として尋ねてきた。
「ところでさ、学くんの彼女ってどんな子なのかな……?」
一瞬、どう答えようか迷った。
だけど結局俺は、ありのままの……俺が感じたとおりの事実を話すことにした。
ここでウソを吐いたって、誰も喜びはしないと思ったから。
「……いい人だよ、うん。誰にでも優しくて。見た目もちょっとぽっちゃり気味の可愛い人。三年の……大森さんって人なんだけど」
「……え? それって……大森直子?」
「あれ、知り合い?」
「う、うん」
問いかける俺に、女の子はためらいがちに頷いてみせた。そして、小さな声で呟く。
「……そっかあ。あのふたり、付き合いだしたんだ。そっか……」
顔を俯け、足元のコンクリートをこつこつと爪先で叩く彼女。
その口調は、それが独り言なのか、それとも俺に聞かせようとしているのか判断しがたい。
どちらにしたって俺に言えることなんてなにもありはしないのだけど、こういうのってちょっと居心地が悪い。
そろそろ帰ろうか。
そんなことさえ考え始めた俺の心境を見抜くみたいに、女の子はゆっくりと顔を上げ、俺に向かって苦笑してみせた。
「あーあ。せっかく頑張って準備してきたのになあ」
「準備?」
「そうだよ。美容室行って、お化粧して、制服だってわざわざ新しいの出してきたのに。それに、ほら」
悪戯っぽく笑いながら、女の子は自分のスカートを左手でめくり上げて見せた。
普段は見えない布地の下から顔を覗かせたのは、眩しいくらいに白い柔らかそうな太股と、淡いグリーンの三角形…………ていうかちょっと待て!
「……ちょ、こら!」
「へっへー。勝負パンツー」
「なにがへっへーだバカ! 隠せ! 即隠せ!」
ていうか紐? ひもパンですか?
いや別に見たくて見たわけでも気づこうとして気づいたわけでもなくて、これはただそのアレだ、腰の横で蝶結びにされた細いヒモが見えたからそう判断しただけで、決して邪な気持ちによるものではなくっていうか混乱しすぎだちょっと落ち着け俺――!
「あはは、輝くん照れすぎー。かわいー」
色々とオーバーヒート気味の俺の顔を覗き込みながら、女の子はけらけらと笑う。
俺はその笑顔から慌てて視線を逸らしながら、照れを隠すみたいに叫んだ。
「やかましい、このチョモランマバカ! 人前でそんなもん見せるな!」
「良いじゃない、別に減るもんでなし」
唇を尖らせて反論してくる。
……バカだ! こいつ絶対バカだ!
「減ろうが減るまいが関係ないの! ……お前なあ、分かってんのか?」
「なにが?」
あくまでも無邪気な顔を見せる彼女に、何故かこっちが気後れしつつ、
それでも最後の抵抗を示すように、小さな声で言ってやる。
「……お、俺だって一応男なんだぞ」
そんな俺に向かって、女の子はあろうことか、小さく舌を出してみせながら、
「童貞は男と認めませーん」
うん。あのね。人間には言って良いことと悪いことがあるとおもうんだ、俺。
「この野郎……じゃない、えーと、め、女郎! お前な、あんまバカにしてるとひどい目に遭わせるぞ!?」
「ひどい目って?」
「あーその、なんだ。具体的にはエロいことをだな……」
言いながらも、顔が紅潮していくのをはっきりと感じる。
そもそもこんな台詞、初対面の女の子に向かって吐くべきものじゃないのに。
何故かこの子が相手だと、遠慮のない言葉がこぼれてしまう。
尻すぼみになる言葉を自分でも情けないと感じながら、
俺は女の子の表情を、上目遣いにうかがった。
「……………………」
沈黙。
……いや、そこで黙られると俺の立場が無いわけだが。
やっぱりマズかっただろうかと、俺は自分の発言を悔いた。
いくらなんでもあの台詞はちょっと行き過ぎだったかもしれない。
だけど、そんな俺の後悔を押し流すみたいに、女の子は微かに顔を赤らめた。
「……そうだね、それも良いかも」
「は?」
一人で勝手にこくこくと頷いてみせて。
女の子は、混乱する俺に向かって、ずいっと体を寄せてきた。
その拍子に彼女の長い黒髪が俺の鼻先をかすめた。
微かにシャンプーの香りを感じて、心臓が大きく跳ねた。
女の子の香り。今まで嗅いだことのない、優しい匂いだった。
「……ってコラ! 急に近づいてくんな!」
だけど女の子はそんな抗議には耳を貸さず、
俺の本心を見抜くように、ただただ艶めかしく微笑んでみせた。
彼女が初めて見せた、妙に生々しい表情に、思わず唾を飲み込んでしまう。
女の子はさらに踏み込んでくる。その動きにもう遊びは感じられない。
相手の吐息が顔に触れる距離。
あと一歩近づけば唇が触れ合うところまで体を寄せて。
女の子は、秘密を打ち明けるみたいな口調で、言った。
「――だって、近づかないと出来ないでしょ?」
「な、なにが」
かすれるような声で尋ねる俺に、女の子は囁きかける。
「エロいこと」
そして彼女は、俺の唇に自分のそれを重ねて――
がちっ。
「痛たたたぁ……」
「ちょ、おま、歯、歯がっ……!」
唇をさすりながら、女の子は恨めしげにこちらを見つめて言う。
その表情からは、さっきまでの背筋を寒くするような色っぽさなんてこれっぽっちも感じられない。
この場合、残念がれば良いのか? それともほっとすれば良いのか?
というか痛いだのなんだの言われても、こっちは初めてだったんだから仕方がないと思う。
自分だって人様の前歯に派手にぶつかってきてくれたくせに、一方的に責めるのはよくない。
「輝くん、勢い付けすぎ」
まだ言ってやがる。
たかだかキスに失敗したぐらいでしつこいヤツだ。
キス。
女の子とキス。うむ。
……って、いや、そうじゃなくて。
ファーストキスを経験したという事実に(内容はともあれ)思わず幸せをかみ締めたくなる気分を押さえ込んで、俺は彼女に視線を送った。
そう。今はこの子に聞いておかなければならないことがある。
「……お前な、どういうつもりなわけ?」
「どういうって?」
少し固い声で尋ねる俺に、女の子はとぼけてみせる。
目線を逸らして顔を動かした拍子に、長い黒髪がさらりと揺れた。
「兄貴に告白しようとしたかと思えば――」
俺の言葉を遮って、彼女は言う。
「ああ……別に、学くんが駄目だったからってわけじゃないよ」
「じゃあなんだよ」
「輝くんのことも嫌いじゃないから……って言っても信じないよね」
「信じられるかバカ。大体俺ら初対面だろうが」
俺の言葉に、女の子はまた驚いた顔を見せた。襟元を正していた指先が止まる。
「え?」
「……あれ、違うの? もしかして会ったことある?」
慌てて脳味噌の中を検索し始める俺。
そういえば、最初に見たとき、なんだか記憶に触れるものがあった様な――。
だけど、俺がなにかを思い出すよりも早く、女の子は小さくかぶりを振って苦笑した。
「……ううん、そうだね。こうやってちゃんと会うのは初めてかも」
「なんだそれ?」
尋ね返す俺に、彼女はピっと人差し指を立てて、真面目ぶった表情で言う。
「実は……実はアタシたちは、前世で恋人同士だったのです!」
脱力した。
なんだか馬鹿馬鹿しくなって、ひらひらと手を振ってあしらってやる。
「……あーはいはい。しかもアトランティスの光の戦士の生まれ変わりで、自分たちと同じように転生した五人の仲間を一緒に集めましょうってか?」
「……なんか妙に詳しいねキミ。もしかしてそっち系の人?雑誌で仲間集めたりしてる?」
「んなわけあるかバカ!」
怯えたように後ずさる女の子の様子に、俺は力いっぱい否定を返す。
「あはっ、すぐそうやってムキになるー。やっぱり可愛いなぁ輝くん」
途端に笑顔を作って、女の子はけらけらと笑いだした。
ああもう、やっぱりからかってやがった。
こちらの頭を撫でようとする手を払いのけながら、溜息混じりに愚痴る。
「お前なあ。タメ年の女に可愛いとか言われたって嬉しかないっての」
「ん? ……ああ、違う違う。アタシ、キミより年上だよ?」
「なんだそれ? 四月生まれとか?」
だとしたら、まあ確かに俺よりは年上だ。
俺はニ月生まれだから、だいたい一年ほど年下ってことになる。
だけど、女の子は頷かず、言葉を濁した。
「ううん、そういうことじゃなくて……ま、いっか」
いや、なにがなんだか分からないのだけど。
まあ別にそう気にすることでもないし、聞き流しておくことにする。
周囲を見回せば、太陽はほとんど沈みかけていた。思えば最初にここに来てから結構な時間が経っている。
屋上の手すり越しに地上に視線を落としてみれば、眼下に見えるグラウンドでは、野球部の連中が帰り支度を始めていた。
「さて、と。じゃあアタシ、帰るね」
俺と同じように下を見ていた女の子が、軽く伸びをしながら言った。
背筋を伸ばした途端に、着崩した制服の隙間から、へそがちらりと見える。
……だからもう少し人の目を気にしろってば。まあ良いけど、別に。
「……たたた。やっぱまだちょっと痛いなあ」
続けて腰のストレッチをしようとして、途端、唇の痛みに顔をしかめた。
「大丈夫かよ」
思わず声をかける俺に、
「ん? ああ、うん。別に血が出てるとかそんなんじゃないし、痛みもすぐ引くと思う」
女の子は笑って手を振ってみせた。
その仕草が何故だか妙に可愛く見えて、
「……まあ、俺のせいだしな、痛いの」
照れくさい気分を隠すように、俺は苦笑を漏らす。
もう少し遊び慣れたヤツなら、ここで気の利いた台詞でも返すんだろうけど、残念ながら俺にはそんなスキルはない。
せいぜい思いつくのは、名前を呼んで感謝の気持ちを伝えることくらい――。
と。そこでふと、彼女に聞き忘れていることがあったことを思い出す。
「……あ、そうだ」
「ん?」
肩越しに振り返ってこちらに視線を送る女の子。そのちょっと薄目の唇を見つめながら、俺は言った。
「そういや俺――お前の名前、聞いてない」
「……………そう、だね。教えてないよね」
何故か奇妙な間をおいて、女の子は軽く頷いた。
体を完全にこちらに向けて、真っ正面から俺を見つめて、言う。
「じゃあ、教えとく。アタシの名前は――白坂、佳織」
しらさか、かおり。……なんだろう。その名前には聞き覚えがある気がする。
同じ学園の学生なのだから、どこかですれ違ったり、そのとき声を聞いたり、場合によっては会話をして、名前を聞いていたとしてもおかしくはないのだけれど。だけど、そんな覚えはない。
それにこの名前は、もっと以前から知っているような――。
考え込む俺に、女の子は――白坂は、目を細めて微笑みかけた。
その瞳はまるで、俺に向かって謎かけをしているみたいに感じられた。
――さあ、思い出せるかな、と。
そうやって、何秒ぐらい見つめ合っていただろう?
白坂はやがて答えを得ることを諦めたみたいに、すっと俺から視線を外した。
その場でくるりと半回転して、こちらに背中を向けて言う。
「……じゃあね、輝くん。今度会うときは――」
「会うときには?」
問い返す俺に、再び肩越しの視線を向けてくる。
「もっと、優しくしてね?」
悪戯っぽくそう言って、にっこりと微笑んで。
白坂佳織と名乗った少女は、そのまま屋上から去っていった。
「……バカかあいつは」
そして屋上に取り残された俺は、そんなセリフを吐くことしか出来なかった。
今が夕方で良かったと思う。
いくらなんでもこんな赤い顔を他人に見せるのは勘弁してもらいたかったから。