あなたたちに似ようとしたのは、人恋しくてたまらなかったから


#傷跡 第二話

「やはり川上だろう」
「そうかあ? どっちかっつうと古橋の方が……」

 彼女とのあれこれがあった、その翌朝。
 いつものごとくのんびりと登校してきた俺を、クラスメイトの声が出迎えた。
 とはいっても、俺の席を囲むようにして立っている二人の友人は、
 俺が現れたことになんて気づいてもいないらしいけれど。

「……あー、君たち。人の席に集まっていったいなんの話をしておるのかね」

 とりあえず、近い方にいた男に声をかける。ていうかそこ邪魔。俺が席につけないだろうが。

「おう、良いところに来た。お前も混ざってけ」

 おはようの一言もなく笑顔で誘ってくる友人――石川に、俺は溜息混じりに尋ねた。

「混ざるもなにも……だからなんの話よ?」
「男が二人以上集まってする話っつったら、女の話題に決まってるだろうが」
「ああそうかよ」

 いつの間に決まったのかなんて、聞いたって教えてくれないんだろうな、多分。
 俺は石川を押しのけて自分の席に座った。
 鞄を適当にしまいながら、意味もなく机の中を探ってみるけれど、幸か不幸か今日は手紙の類はないらしい。
 そんな俺の仕草にも反応しないで、石川は続けて聞いてきた。

「で? 吉河はどっちが好みよ? A組の川上とD組の古橋」
「いや、両方知らんし」

「知らんって……お前ちゃんと生きてるか? その目は世界を映しているか? 川上に古橋っていったら、学年で一二を争う美少女じゃないか」
「そんなこと言われてもなあ……知らないものは知らないし」
「……オゥ、ジーザス」

 にべもない俺の言葉に、石川は大袈裟な身振りで天を仰ぐ。
 たっぷり五秒ほど天井に向けられていた視線は、再び俺を捉え直したときは、妙に切ない色に染まっていた。

「……なんでそんな哀しげな目で俺を見る」
「だってかわいそうじゃないか! お前はこの半年、川上のDカップを拝むことも、 古橋のエンジェルスマイルを見ることもなく生きてきたんだぞ? これを哀れと呼ばずしてなんと呼ぶ!?」
「分かったから唾飛ばすな、唾」

 顔を遠ざけながら言う。
 だけど石川は嫌がる俺の言葉に耳を貸さず、さらにテンションを上げて語り続けた。
 ぶっちゃけアレだ。キモい。

「そもそもお前はアレだ、女に向ける意欲が薄すぎるんだ。一昔前ならそういうのもクールだのなんだのって言われてウケたけどな、今となってはもう流行らんのだよ!」

「だから唾飛ばすなってば。……いや、俺だって別に女に興味がないわけじゃないよ。そりゃモテたいとは思うし、彼女だって欲しいさ」

「ならもっと情報収集に励め! 鷹の瞳で女を追え! 餓狼のごとく食らいつけ! 良いか、努力しない人間が成り行きで捨てられるほど童貞ってのは軽い足枷じゃあないんだぞ? 下手したら一生背負い続けなきゃならん十字架なんだぞっ!?」
「……だから唾をだな……」

 そこで、ふと思い出した。
 昨日出会った女の子。あの子だって、性格は無視して顔だけ見てやれば、結構な美少女だったはずだ。
 昨日は名前しか聞けなかったけど、目の前の歩くわいせつ物なら、白坂の詳細なデータを持っているかもしれない。

「なあ石川、ウチの学年で白坂佳織って知ってるか?」
「しらさか……んー、白坂? いや、聞いたことないなあ。その子がどうしたって?」
「いやまあ色々と。……ま、知らないんなら良いや」

 俺は言葉を濁す。しかし一度獲物に食らいついた石川はそう簡単には諦めてくれない。
 いやらしい笑顔を満面に浮かべて、おっさんくさく小指を立てて顔を寄せてくる。
 そして、なんだか共犯者に語りかけるみたいな口調で俺を問い詰め始めた。

「なんだおい。それは何者だ。どんな子だ? お前の知り合いか? これ? これ?」
「うるさい黙れ」

 こういう会話の流れに付き合うと、ずるずると余計なことまで話す羽目になりかねない。
 だから俺は、さっさと会話を切り上げるべく、ちょっと乱暴な行為に及ぶことにした。
 ……具体的には、アホみたいに突き出されたヤツの小指を掴んで、思い切り反らしてやった。

「めぎゃあ!? ゆ、指が曲がってはいけない方向に!?」
「自業自得」

 小指を押さえてもがき苦しむ石川に、俺は冷たい口調で言い捨てる。
 そして視線を、隣の席で苦笑している木下に移して、石川に聞いたのと同じ事を尋ねてみた。

「……お前は知ってる? 白坂って」

 その問いかけに、木下は首を横に振った。

「いや、俺も聞いたことない。ていうか石川が知らんのに俺が知ってるはずないだろ」
「そりゃそうか」

 呼吸するインモラルこと石川の女子に関するデータベースは正確無比だ。
 噂によれば、学園内の女性(下は新入生から上は用務員のおばちゃんまで)すべての名前、住所、電話番号、メールアドレス、果ては趣味嗜好スリーサイズ彼氏の有無まで完全に把握しているとか。
 ……ていうか、そこまで行くと眉唾物だと思う。そもそも犯罪だし。
 でもまあ、ヤツが女の子に詳しいのは事実ではある。

「あ、でも……」
「ん? やっぱ知ってんの?」
「いや……俺も今朝職員室でちらっと聞いただけなんだけどな。なんか、今週から新しく学生が入ってきてるらしい。F組だったかな、たしか」
「へえ、この時期に転入生?」
「うんにゃ。よくは知らんけど、休学してたんだと。本当は三年生なんだけど、二年間休んでたからまた一年からやり直すみたい」

 復学か。……ああ、そういえば。

 ――違う違う。アタシ、キミより年上だよ?

 そんな事を言っていたような気がする。
 ということは、やっぱりその復学する子っていうのがアイツなわけか。
 兄貴のことを知ってるのだって、元は同じ学年だったからなんだろうし。
 ……だからって、なんで俺のことまで知ってるのかは分からないけれど。

 まあ、その辺りは本人に聞いてみれば済むことだと思う。
 別に兄貴に尋ねてみても良いのだけれど、その場合は俺がアイツを知ってるのかも話さなきゃならない。ということは、必然的にラブレターの件が話題になるわけで――。 それはちょっと気まずい。色々と。

「サンキュな、木下」

 とりあえずは貴重な情報を提供してくれた友人に感謝の意を示す。
 そんな俺に、木下は小さく苦笑して応える。

「なんか良く分からんけど、どういたしまして。ところで……」
「ん?」
「こいつはいつまで蠢いてるんだ?」

 指し示された床の上では、躍動するアブノーマルこと石川が、未だにのたうち回っていた。
 なんだろうこれは。カフカの『変身』ごっこかなにかか?
 というか、もうとっくに痛みなんて引いてると思うんだけど。

「……ほっとけ」

 まあ、たぶん構って欲しいだけなんだろう。
 俺はそう判断して、そのまま一時限目の授業の用意を始めた。
 足元で石川が不満げな声を上げるのを黙殺して。





 ――そして放課後がやってきた。
 待ち合わせをしたわけでも、きちんと約束をしたわけでもない。
 なのに俺は、何故かまた屋上に足を運んでいた。

 白坂に、また会いたいと思ったから。
 確かにまあ、『そういうこと』を期待している部分もある。
 だけど、俺の名誉のために言っておくけれど、決してそんな気持ちのためだけにあいつに会おうとしてるわけじゃない。
 彼女には聞きたいことがある。本当に初対面なのか、と。
 顔を見たとき、名前を聞いた時に感じたあの既視感は、俺の思い過ごしなのか、と。
 それだけでもない。
 そんな理詰めの思惑は抜きにしたとしても――俺は、白坂とまた話をしてみたかった。
 恋愛感情うんぬんについてはよく分からないけど、あいつと話すのは、結構楽しかったから。

 ――だっていうのに。

「いないしな」

 人気の無い屋上を見回して、溜息をついた。
 せっかく人が会いに来たっていうのに、白坂の気配ははどこからも感じられかった。
 今この屋上にいるのは、俺ともう一人、昨日俺と白坂が話をしていた辺りに立って、風景を眺めているキザな男子学生だけだ。

「……って、あれ。兄貴?」

 そのキザな男子学生には見覚えがあった。
 昨日と同じく、この位置からじゃ顔までは分からないけれど、生まれてからずっと一緒に暮らしてきた兄弟のことだ。後ろ姿でだってすぐに分かる。

「ああ、輝か。お前こんなとこに何の用だ?」
「そう言う兄貴こそ。なに黄昏てんのさ?」

 兄はその言葉には答えずに、ただ静かに視線を風景へと戻した。
 しばらくの沈黙。風の吹く音が微かに聞こえてくる。
 こういうのも嫌いじゃない。
 だけど、なんとなく居心地の悪さを感じるのも事実だ。
 俺はなにか適当な話題を振ろうと口を開きかけ、

「――なあ、輝」

 それに先んじて、兄が声をかけてきた。
 若干のばつの悪さを感じながら、応える。

「なんだよ」
「なんか今、昔話がしたい気分なんだけどさ……お前、聞いてくれるか?」
「面白い話なら。こないだの……なんだっけ。砂かけ婆がローマに渡ってカエサルになる話」
「『全ての道は老婆に通ず――ゲゲゲのジュリアス血風録、プルータスお前もか』だな。俺が考えた童話の中じゃ、けっこうイケてる部類だと思うんだが」
「……ああいうのは無しにしてくれ。正直、聞いてて殺意が湧いた」
「ひどいな。自信あったのに」
「つうか勝手にお伽噺をねつ造するな、改変するな、いろいろ混ぜるな」
「はは。ま、安心してくれ。今からする話は混じりっけ無しのノンフィクションだから」

 そして、兄はぽつぽつと語り始めた。
 遠くを見つめたまま、その瞳に辛そうな光を灯して。
 面白くもなければ腹立ちも感じない――ただ、哀しいだけの話を。



「二年前の今頃な。俺、好きな子がいたんだ。明るくて、猫みたいに移り気で、やることなすこと滅茶苦茶で、信じられないくらいに笑顔が可愛い、そんな女の子だった。その子と俺はクラスメイトで、たまたま同じバンドのファンで。それがきっかけで仲良くなってさ、ときどき一緒に遊びに行ったりしてた」
「なんだよそれ。ノロケ話か?」
「違うよ。今の彼女の……直子の話じゃない」
「……え?」

 思わず声を上げた俺を捨て置いて、兄は言葉を紡ぎ続ける。

「続けるぞ。さっきも言ったけど、俺はその子のことが好きだった。もうべた惚れだよ。授業中も休み時間も、視線はその子をずっと追ってたし、昼飯だって、その子が屋上で食べてるって知ってから、俺もそうするようにした。……自惚れとか勘違いかもしれないけどな。俺がその子を好きなのと同じみたいに、その子も俺を好きになってくれてたと思う。いや、自分で言うとすごく恥ずかしいけど……そういう気持ちが伝わってきたんだ」
「それで? その子とはどうなったんだ?
「告白しようと思ったんだ。ラブレターまで書いたんだぜ、俺が。信じられるか? 一生懸命文章練って、頭が痛くなるくらいに推敲して。徹夜までしたよ。あなたが好きです。屋上で待ってます。要するにそれだけの事しか書いてないんだけどな。それで次の日にさ、ようやく出来上がったラブレターをその子の机に入れたんだ。あとはドキドキしながら放課後を待って、その子が屋上に行く前に先回りしようとして……その途中で先生に捕まって、用事を言いつけられて。やっと終わったと思ったときには、辺りはもう夕暮れ時だったよ」
「……それで」

 ごくり、と。ツバを飲み込んで、問う。

「もう待ってないだろうとは思ったけど、一応屋上に行ってみた。いつもはさ、今みたいに人気のない場所なんだよ、ここ。だけど、その日はなぜか、もう夕方だってのに大勢の人間がいて、妙に興奮した感じで騒いでるんだ。学生も先生も、みんな」
「……なんで?」
「俺もそう思った。なんで、ってな。それで適当なヤツに聞いてみた。なにかあったのかって。そしたらそいつは――」

 そこで一旦言葉を切って、兄は俺に目を向けた。
 いや……彼が見ているのは俺じゃあなかった。
 その視線の先にあるのは、俺がもたれかかっている手すりだった。

「なあ」
「うん?」
「お前が今もたれてる手すりさ、他の部分に比べて新しいだろ?」
「……え? ああ、そういえば」

 確かに、他の部分は塗装が剥げて地金の色が見えてきているというのに、
 ここの部分だけはまだ綺麗に塗料が残っている。

「それ、二年前に取り替えられたんだ。前のは老朽化してたんだよ。そうやって人がもたれたら、ぽっきり折れて倒れるくらいに」
「……まさ、か」

 思わず息を呑んで絶句する俺の顔に、ちらりと視線を送って兄は笑う。

「察するのが早いな。お前、良いミステリの読者になれるよ。……そうだよ。俺が屋上についた時、そこの手すりが折れて無くなってたんだ。俺は人混みをかき分けて、慌ててそこまで走ってきて、下を見下ろした。そして――」

 一瞬ためらって、それでも、兄は、

「そして、担架で運ばれていく彼女を見た」

 淡々と、悲しい事実を口にした。

「……それは」

 言葉が出てこない。なんと言って良いのかまったく分からない。
 ただただ顔を歪めることしか出来ない俺に、兄は苦笑を投げかけた。

「そんなに絶望的な顔するな。心配しなくても彼女は生きてたよ。落ちた場所が植え込みの上でさ、それがクッションになったらしい」
「……安心した」
「俺もだよ。俺もその時は心底ほっとした。同時に申し訳ない気分にもなった。俺があんなところに呼び出したせいで……彼女はあんな目に遭ったんだから。謝ろうと思ってね。次の休みに彼女の面会に行った。花束持って、差し入れ持って。頭ん中はなんて謝ろうか、どうやって詫びようかってことで一杯だった」

 そこまで話して、兄は一旦言葉を止めた。眉をひそめ、眉間を揉む仕草。嫌なことがあったときの兄の癖だ。
 嫌なら無理に話さなくても良いのに。そんなことを言いかけた俺を抑えるように、兄は再度言葉を紡ぎ始めた。

「俺は彼女の病室にたどり着いた。個室だったよ。緊張しながらノックして、部屋の中から彼女の返事がして。俺は名乗った。吉河です、お見舞いに来ました。そしたら彼女はこう言ったんだ。帰ってください――って」
「なんでだよ……なんで、そんな」

 確かに、その子を屋上に呼んだのは兄だ。
 だけど、彼が突き落としたわけでもそう望んだわけでもない。
 落ちた原因が手すりの老朽化によるものなら、それは単なる事故だ。
 かわいそうだとは思うけど、悪いのは注意が足りなかった彼女か、あるいはそんな危険な状態になるまで手すりを取り替えなかった学園の運営陣だろう。それくらいは、その子にだって分かるはずなのに――。

「分からないよ。俺にも分からない。しばらくその場で押し問答したけど、結局彼女は部屋に入れてくれなかった。俺は諦めて家に帰って、次の日また行ってみたけど結果は同じだった。仕方がないからさ、とりあえず俺は、彼女が登校してくるのを待つことにした。どれだけの怪我を負ったのかは知らないけど、そのうちまた戻ってくるだろうと思って。だけど――だけど、彼女はまだ戻ってきていない。戻ってこないのかもしれない」

 兄は続ける。なにかを否定するように。

「……事故から半年が経った。その頃には、もう待つのにも疲れてきてた。一日中むしゃくしゃして……そういやお前に当たったこともあったっけな。
 あの頃は目に映る物全部がムカついてしかたなかったんだ。なんていうかな、失恋したときの気分そのままだよ」

 兄は続ける。誰かに懺悔するように。

「……そんな俺をな、慰めてくれたのが直子だ。直子はその事故に遭った子の親友で、俺ともそれなりに仲が良かった。そういう縁もあって……付き合いだしたってわけだ」

 吐き出すように、語り終えて。
 兄は深く深く溜息をついた。
 疲れ切った笑みを浮かべながら俺に目を向けて、言葉を投げる。

「……ってのが、俺の昔話なわけだが。どうだ感想は?」

 そんな問いに、俺は憮然とした表情で答えを返す。

「エセ童話の方が遙かにマシだ。……こんな話、聞きたくなかった」
「はは、悪いな。なんとなく誰かに聞いて欲しい気分だったんだ」

 苦笑を深めて、兄は再び視線を風景に――あるいは、遠くの空に向けた。
 もうここにはいない誰かに語りかけるように、穏やかとも感じられる声で言う。

「……今日、な」
「うん」
「あの子がここから落ちた日なんだ。だからかもしれない。なんとなく……ここに来てみた」
「そっか」
「ああ、そうだ。……それで?」
「それでって?」
「お前はなんでここにいるんだ? 誰かと待ち合わせか?」
「……ああ、いや」

 今度は俺が遠くを見つめる番だった。
 兄は俺を、良いミステリの読者になれると誉めた(たぶん誉めたんだろう)けれど、
 だけど、今この場所においてのみ言うなら、俺は察しの良さなんて欲しくなかった。
 出来れば――気づかずにいたかったから。
 そんな思いを示すみたいに、沈んだ声で俺は答える。

「……確かに人に会いに来たんだけど……どうなんだろうな」
「なにが?」
「アイツが待ってるのは、たぶん俺じゃない」
「はあ?」
「アイツが待ってるのは――」

 きっと、兄貴だよ、と。
 そんな言葉を思い浮かべて、だけど口には出さず。
 俺はただゆっくりと歩き出した。

「あ、おい。帰るのか?」

 後ろから投げかけられる声に、手を振って返す。

「ああ。兄貴は?」
「……そうだな、俺も帰るよ。久々に一緒に帰ろう」
「了解」

 歩調をゆるめて兄が追いついてくるのを待ちながら、
 俺は、聞くべきこと――聞きたくないけれど聞かなければならないことを、尋ねた。

「……ところでさ、兄貴」
「ん?」
「その落ちた子の名前って……なんて言うんだ?」
「は? なんでそんなこと聞くんだよ」
「いや、なんとなく気になってさ」
「なんとなくって……まあ良いけどな。あの子の名前は――」

 躊躇うように間を置いて、それでも兄ははっきりと言った。

「白坂、佳織」

 ……なんでだろう。
 その名前を聞いた瞬間……泣き叫びたいような気分になった。




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