#傷跡 第三話
「おっす」
「おっす」
片手を上げて横柄な挨拶をする俺に、白坂も同じように応える。
放課後の屋上。初めて彼女と会ってから三日目。
こうやってこの場所を訪れるのが俺の日課になっていた。
手すりにもたれて空を仰ぐ白坂の前に立ち、同じように頭上を見上げた。
天気は快晴。ほのかに赤く染まりだした空に向けて、ぽつりと呟く。
「……昨日はいなかったよな」
「うん。ちょっと用事があったから。……ごめんね? もしかして待ってた?」
あくまで視線を合わせないまま、俺は小さくかぶりを振った。
「うんにゃ。確かに寄ってはみたけどな。まあ期待はしてなかったし」
「うわ、それひどい。アタシに会えなくても良かったってこと?」
拗ねたような声。そこでようやく俺は視線を戻し、彼女の顔を見た。
一昨日と変わらない、頬を膨らませて抗議する表情。
まだ出会ってから三日しか経っていないというのに、俺は、なんとなくだけどこの女の子の気持ちを察することが出来るようになっていた。
こういう顔をするのは、構って欲しい気分のときだ。
その期待に応えるように、俺はわざとおざなりな返事を返す。
「……あー、はいはい。会えなくて残念でした」
「なーんか誠意が感じられないなあ? 本気で後悔してる?」
「してるともさ。ああほんとうにざんねんだなあ」
「うっわ、なんか知らないけどすっごくムカツク」
平坦な口調で言う俺に、白坂は歯ぎしりして悔しがる。
自分がからかわれていると気づいているんだろう。
そして、怒ったフリをしながらも、そんな状況を楽しんでいる。
取るに足らないやりとり。
友達同士が交わすみたいな、馴れ合いじみた口喧嘩。
もう少しこの空気に浸っていたい気もするけれど、だけど、今の俺はこの雰囲気には馴染めない。
あまりにも心地よすぎて、かえって悲しくなってくるから。
だからさっさと本題に入ることにした。
「……まあ、残念なのは俺だけじゃないけどな」
「なにそれ?」
「昨日な、兄貴もここに来たぞ」
俺の言葉を聞いた瞬間、白坂の肩が微かに震えた。なにかに怯えるように。
そんな感情を隠すみたいに、白坂はわざとらしいまでに明るい声で聞き返す。
「……え。そうなの?」
「ああ。たまたまここで会ってさ、しばらく話した」
「……そうなんだー。あはは、なんか格好良いじゃん。黄昏時の屋上で血を分けた兄弟が語り合う、とか」
あくまでも軽いノリを崩そうとはしない白坂。
その顔を正面から見つめながら、密かに拳を握り締めた。
……本当に。本当にあんな話――聞かなきゃよかったよ、兄貴。
「まあな。話の内容はあんまり楽しいもんじゃなかったけど」
「あれ、そうなの? なに話したの?」
「嫌な話だよ。……ここから落ちた女の子の話だ」
とどめを刺すような言葉。
低いトーンで紡がれたその台詞を聞いて、白坂の笑顔が固まった。
「…………え?」
痛々しくさえ感じられるその顔から目を逸らして、俺は言葉を続ける。
「復学したんだな。その上兄貴に手紙まで出して。どういう心境の変化だ?」
問いかける俺に対して、白坂は自嘲するような笑みを浮かべた。
「……そっか。聞いちゃったんだ」
手すりから身を起こして体の向きを変え、昨日の兄と同じように、俺に背を向けて遠くの風景に目を向ける。
兄なんかよりも遙かに華奢なその後ろ姿を見つめながら、俺はじっと言葉を待つ。
じりじりとした時間。沈み込むような沈黙。
だけど、以前のような居心地の悪さは感じない。
何故なら、彼女はきっと答えを返してくれると、そう確信していたから。
そんな俺の思いを裏付けるように、白坂は小さな声で呟いた。
「……決着を付けたかったから、かな」
「決着?」
「うん。いつまでも引きこもってても仕方ないし、学くんには悪いことしちゃったし。この辺できっちりケリつけて、もう一度やり直そうって思ったんだ」
「……分かんないな。それとラブレターにどんな関係があるんだ?」
「きちんとフって欲しかったの。学くんに。綺麗さっぱり失恋して、吹っ切りたかった」
「フるって……。兄貴もお前のこと好きだったんだろ? そりゃ確かに今は彼女がいるけどさ、絶対フラれるって決まったわけじゃ……」
言い募る俺を遮って、白坂は首を横に振った。
くだらない同情を拒絶するように。
「ううん、きっとフラれるよ。だって……」
そこまで言って、白坂は言葉を止めた。
不意に沈黙した彼女を促すために、俺はその背中に声をかける。
「……だって、なんだよ。続きは?」
しかし、返ってきたのは答えではなく、からかうような笑い声だった。
白坂はくすくすと笑いながら俺の方を振り返り、風にそよぐ長い髪をそっと手で押さえる。
そして一昨日と同じような、艶めかしい表情をその白い顔に浮かべて、とろけるような声音で、尋ねた。
「……それよりさ、こないだの約束覚えてる?」
「約束? ……って、おい!」
問い返す俺の目の前で、白坂は制服のボタンを外し始めた。
ブレザーの前を開き、それを羽織ったまま今度は中に着たブラウスに手をかける。
しゅるりと微かな衣擦れの音を立て、襟元からリボンが抜き取られた。
そして、俺を焦らすように、ゆっくりとした指の運びで、ブラウスのボタンが外されていく。
止めようと思った。
今日はそんなつもりで来たんじゃないと。
だけど俺がそう言うのを見越したように、白坂は艶やかな笑みを浮かべて囁いた。
「今度は優しくしてねって……言ったよね?」
その一言だけで、何故か俺はなにも言えなくなった。
ただ呆然と、彼女の体を隠すものが取り払われていく様を見守り、
ちらちらと見える白い肌に、信じられないくらいに気持ちを高ぶらせる。
こういうことはあまり言いたくないのだけれど……だけど、認めよう。
俺は今、確かに――白坂の体を見て、欲情していた。
「――さあ、もう良いよ?」
誘うように両手を広げて、白坂が俺を招く。
制服は足元に脱ぎ捨てられて、彼女が身につけているものは、すでに下着だけとなっていた。
勝負パンツとうそぶいた、一昨日の物と同じ、淡いグリーンの布地。
合わせてコーディネイトされた、シンプルなデザインの同色のブラジャー。
俺はあの色を知っている。だけど、だからって落ち着いていられるかというと――答えは否だ。
普段は制服越しに隠されている部分が、今こうして目の前にさらけ出されている。
その白い肌を見つめているだけで、俺の興奮は急激に高まり続けていた。
あの体に触れたい。隅々まで触って、弄んで、味わい尽くしたい。
そんな思いが抑えきれなくなりそうだ。
だけど……だけど俺は、最後に残った理性を総動員して、気持ちを抑え込んだ。
そして、カラカラに乾いた喉からかすれるような声を漏らす。
「――だっての、続きは……?」
問いかける俺の視線が、自分の体を這い回っていることに気づいているのか。
白坂は頬を赤く染め、媚びるみたいな口調で囁いた。
答えを求めているのは俺だっていうのに。
「続きは――アタシとしてくれたら、教えてあげる」
ごめんなさい。
誰にともなく心の中で謝罪する。
そんな自分を笑い飛ばす余裕すら残っちゃいない。
俺は、まるで夢遊病者みたいな足取りで白坂に近づいて、その華奢な身体にてを伸ばそうとして――そして、気づいてしまう。
白坂の、名字の通りの真っ白な肢体。
その左肩から脇腹にかけて、赤黒い色の何かが、まるで模様のようにへばりついていた。
「お前、それ……」
顔を覗かせる程度には帰ってきた理性が、俺の口を使って白坂に問いかける。
始めはなんのことだか分からない、というような表情を浮かべていた彼女も、やがて俺の視線の向かう先に気づいて、「ああ」とため息にも似た声を漏らした。
ああ、やっぱり気になるよね。
そんな感じの、妙に諦めの匂いがする声。
それが、何故だか無性に腹立たしくて、俺はなおも問いかける。
「それ、どうしたんだよ」
……実際のところ、それが何かなんて誰の目にも明白だった。
傷跡。
いつ出来た傷なのか。なぜ出来た傷なのか。そんなことさえも明白。
「……輝君の想像通り、だと思う」
悟ったような、諦めたような表情で微笑んで、白坂は言う。
そして、殴りたくなるくらいに明るい声で、
「やっぱさ、嫌だよね。こんな傷とか。見てて気持ち悪いし、触るとね、カサカサしてるんだよこれ。なんていうか、ほら、アレだよね。男の子的には引いちゃうよね。抱きごこちとか触りごこちとかさ、そーいうの悪いだろうし。他の女の子の身体に比べると私なんてぜんぜ」
まるで壊れたラジオみたいに言葉を垂れ流す彼女を、俺は強引に黙らせる。
こういうとき、『唇』でなんて枕詞を付けられたら素敵なんだろうけど。
残念ながら俺にはその手のスキルが全く備わっていないから、もう少し乱暴な手段を取るしかない。
「うるさい」
そんな言葉を吐きながら、俺は白坂を抱きしめる。
彼女が言うとおり、その赤黒い肌はカサカサと乾いていて、お世辞にも触り心地が良いとは言えない。
そんな俺の思考を読み取ったのか、白坂は眉を吊り上げ、声を荒げようとする。
「……なにそれ。気ぃ遣ってるの? 言っとくけどそんなの」
「だから、うるさい」
抱きしめる腕に力を込めて、再度黙らせる。
……こういう言い方をすると、優しさが無いだのなんだのと罵られるかもしれないけれど、ぶっちゃけた話、たかだか傷跡『ごとき』で萎えてしまうほど、男子高校生のリビドーは生易しいもんじゃない。
そう、傷跡ごとき、だ。そんなものがなんだっていうんだ。あれだけ誘惑しといて、最後の最後で勝手に終わらせようとされてたまるか。
それに。
「『だって』の続き、聞きたいんだよ」
「え――」
かろうじて生き残っていた理性に、そんな言葉を呟かせて。
再度俺の体の支配権を勝ち取った本能(と書いてスケベ心と読む)が、白坂の身体に伸ばした手を蠢かし始める。そんな俺の様子に、白坂は戸惑った声を漏らすけれど、ごめん、もう止まらない。
なんというか、まあ、アレだ。
我慢の限度、超えてますんで。