あなたたちに似ようとしたのは、人恋しくてたまらなかったから


#たとえばの話(さよなら)


(0−2)

 長い長い話の終わりを、ため息で締めくくって。
 僕は話している間中、ずっと意味もなく閉じていた瞳を、ようやく開いた。目を開けて見回してみれば、話し始めた頃には空の片隅で本日最後のサービスとばかりに、真っ赤な光を放っていた太陽は、いつのまにかその姿を隠し、代わりに辺りは冬の夜のひどく冷たい暗闇に包まれていた。
「そっか……」
 ぽつり、と。
 夜空に吸い込まれてそのまま誰の耳にも届くことなく消えてしまうんじゃないかと思うくらいに、かすかな声で。
「そっか……死んじゃったんだ、わたし。キミの中では」
 彼女は、なにかとても大切なものを無くしてしまったみたいな、致命的なまでに諦めに満ちた声音で、そんな言葉を吐いた。
 違うんだ、これは作り話なんだ、なんて、そんな事を言おうと彼女に顔を向けた僕の、その視界が、不意になにかで遮られた。その冷たさと、その柔らかさと、
「こっち見ないで。そのまま目を閉じて、10、数えて」
 そんな風に命じる声で、彼女が僕の目を、手のひらで覆い隠したことが知れた。
 急になにを言い出すんだ、なんて僕の疑問は、「良いから、数えて」という有無を言わさない口調に、綺麗さっぱり打ち負かされ、打ち捨てられた。
 仕方なく僕は、再び目を閉じて、彼女の体温をまぶたに感じながら、カウントを始めた。
「10、9、8――」
「バカ」
 少し掠れた声で彼女が言う。
 僕はほんの少しだけ躊躇うけれど、そんな僕を叱咤するみたいに、彼女が手のひらを上下に揺らすものだから、結局はどうにも出来ずにただ阿呆みたく数を数え続けるしかなかった。
「7、6、5――」
「バカ。ほんとにバカ。大バカ」
 そう罵る声に、湿り気が含まれてきた気がする。でも――でも、止めてはいけないんだ、と。何となくそう思ったから、だから僕は――。
「4、3、2、1――」
「……………………バカ」
 バカ、だけど……。
 消え入るような彼女の声に重ねて、僕は最期に、
「ゼロ」
 力を込めて、だけど、ほんの少しだけ震え混じりの口調で、別れを告げるみたいに、数え終えた。
 途端に辺りは静けさに包まれる。風の音も、彼女の吐息も、なにも聞こえない。視界を奪われたままの僕に感じられるのは、彼女の手のひらの温度と柔らかさだけで、目を開いたら世界なんて消えて無くなってしまってるんじゃないか、なんて子供じみた恐怖感に襲われるくらいで。そんな五月蠅いくらいの静寂に負けて、僕は口を開いた。
「……ねえ、もう目、開けて良いかな?」
 その言葉に対する応えは、「だけど」の続きなんかじゃなくて、
「――開けたいなら、開ければ良いんじゃない?」
 そんな君の、どこか戸惑いの混じった声で返された。
 そう、君の声だ。信じられないことだけど、それは確かに君の声だった。砂を詰めた靴下で後頭部をぶん殴られたような(実際に殴打された経験は、幸いにして未だに無いけれど)衝撃を、心のどこかに感じながら、僕は目を見開いて、顔に乗せられていた手を振り払って、そして、その手の持ち主を見やって――。
「なに、どうしたの? そんなに驚いた顔して」
 僕の隣に座って、訝しげに問うてくるのは、くすんだ青のタートルネックと膝丈のスカートの上からファー付きの白いコートを着込んだ、ツインテールがあまり似合わない彼女ではなくて。僕らが通う学校の、ひどく野暮ったいセーラー服に、だぼだぼのデニムジャケット(大きくて当たり前だ。だってそれは僕の服なんだから)重ね着した、目が少し吊り上がり気味で、それでも幼く見えて、腰まで伸ばした真っ直ぐな黒髪が自慢の――見間違えようも無い、僕の妹だった。
「な、んで……?」
 未だに目の前の現実を受け入れられない僕を見つめ返して、君はそろそろ心配の色が含まれ始めた表情で言う。
「なんで、って? それはこっちの台詞じゃないかな。散歩に出てからだいぶ経ってるっていうのに、全然帰ってこないんだから。心配して探しに来てみたら――なんか、こんなところで寝てるし」
 こんなところ、という部分で、君は辺りを見回してみせた。釣られるように僕も視線を走らせる。薄暗い街灯に照らされて浮かび上がる、ブランコ、滑り台、去年撤去されたシーソーの土台、ひどく小さな砂場。見慣れた風景だ。何故って、僕と君は、毎日この場所のすぐ前を通って登校しているのだから。そうだ。ここは僕らが住むマンションのすぐ目の前。僕らの部屋からも、かつて母さんと呼ばれていた女性が、自殺死体と名前を変えた場所からも見える、マンションの敷地内の児童公園だ。
 ――僕と彼女は、こんなところでなにをしていたのだろう?そんなことを考える。さっきまでのことが、さっきまで見ていた顔が、聞いていた声が、感じていた体温が、全部幻だっただなんて、思いたくないから。だから、僕と彼女がここに来た理由を思いだそうとしてみる。だけど何故だろう? それはまるで頭の中から掃除機かなにかですっぽりと吸い出されてしまったみたいに、ほんの少しだって思い出せそうにもない。なにか大事な、大切な記憶であることは確かなのだけど――。
 より深く自分の中に潜っていこうとする僕を引き留めるように、君は勢い良く立ち上がり、僕の手を掴んで、
「さ、もう帰ろうよ? いつまでもこんなところにいたら、風邪引いちゃうし……それに今日の夕飯、お兄ちゃんが当番なんだよ? これ以上待たせるっていうなら、わたしが勝手に作っちゃうよ?」
 自分の方へと僕を引き寄せながら、たとえば納豆かけプリンとか、なんて空恐ろしい台詞を吐いて、くすりと笑った。
「ああ、うん――帰る、か」
 ……実際のところ、納得出来ない。全然腑に落ちない。これっぽっちも気に入らないし、ほんの少しの余韻さえもない。最低で、最悪の結末だと思う。思うけれど――それでも、これはこれで仕方が無いことなんだ、なんて言葉で、彼女に関する全てを諦めてしまえる僕が、確かに存在していて、もちろん僕が僕自身に逆らえるはずもなく。
 僕は君に促されるままにベンチから腰を上げようとして、そこで、ふと気づいた。
「……ねえ」
「ん? なに、お兄ちゃん?」
「君の手――なんで濡れてるんだ?」
 そう、今こうして手を握って初めて気づいたのだけれど、つい先ほどまで僕の顔に乗せられていた君の手が、僅かに湿り気を帯びていた。汗をかくような季節じゃないし、かといって雨が降っているわけでもないのに。
 そんな僕の問いかけに君は、気づいてないの、と目を丸くして、そして言った。


「お兄ちゃん、泣いてるんだよ?」


 ……目尻に手を当てて確かめてみる。指先に濡れた感触。意味もなくその指を舐めてみた。塩気の効いた味がした。うん、涙だ。確かに僕は泣いている。前に泣いたのがいつだったのかも思い出せないくらい久しぶりに、涙を流している。
 この涙が、一体誰のために、なんのために流されているのかなんて、今の僕にはもう分からない。だけど、ただなんとなく、

 さようなら、と。

 心の中で、そんな言葉を呟いた。
 母さんに、彼に、彼女に、そして、君以外の全てに――この世界に向けて。

 さようなら。僕らは帰ろうと思います。

 そう、呟いた。
















小さく、君が微笑んだ気がした。




 <FIN.>

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