あなたたちに似ようとしたのは、人恋しくてたまらなかったから


#彼女の話


(1)

 まず最初に目についたのは、彼女が履いている靴だった。
 特に力を込めなくたって、そっと触れるだけで壊れてしまいそうな細い足を包む、真っ赤なコンバースのオールスター。なんてことのない、ごく普通のスニーカーだ。オールスターぐらい僕だって持ってる。色は黒だけど。
 ここで問題になるのは靴の種類ではなくて、その色だった。そして、そんな靴を履いているのが、よりにもよってウチの学校の制服を着た女の子で、しかもおそらくは登校の途中だと思われる、ということだった。
 僕には転校の経験もなければ、他校に親しい友人がいるわけでもないので、よそではどうなっているのかなんて分からないけれど、ウチの学校では、登下校時には白い運動靴を着用することが義務づけられていた。学生手帳にだってちゃんと書いてある、らしい。僕は読んだことがないけれど。ともあれ、そういう校則があるということは、もちろん違反した者に対するペナルティも用意されているということだ。もしも白以外の色の靴を履いている人間がいた場合、まず間違いなく校門のところで職務に忠実な生活指導担当の教師に捕まえられて、くどくどとした説教のあとで靴を没収、その場でそういった不心得者を嫌な気持ちにさせるためだけにわざと汚してあるという噂の、信じられないくらいに黒ずんだ運動靴に履き替えさせられて、とどめとばかりに反省文の提出を科せられることになる。
 よしんば運良く校門を無事に通過出来たとしても、そこはそれ、どんなクラスにも何人かはいるであろう、意味もなく正義感に満ち満ちた生徒のうちの誰かが、学生にあるまじき色合いをした、他の生徒に悪影響を与えかねない靴を、どこか他人の目につかない場所に運び去ってくれる手はずになっている。たとえば校舎脇の焼却炉。たとえば食堂の裏にあるゴミ捨て場。たとえば校内で一番汚いと評判の、体育会系部室棟内の男子トイレの大便器の中。
 ああ、素晴らしきかな学生自治。素晴らしきかなムラ社会。素晴らしすぎて、僕には理解できそうもないけれど、とにかく、ここにはそういう仕組みが作り上げられているのだ。
 つまるところ、どう転んだところで、放課後に反省文を職員室に提出してそのついでに駄目押しの説教を喰らうか、あるいは正義の味方殿が、くすくすと嫌味な声で笑いながら靴がある場所を「友達が見かけたって言ってたんだけど」という実にわざとらしい枕を置いた上で教えてくれでもしない限り、彼、あるいは彼女が履いていたお洒落な靴が、持ち主の元に帰ってくることはない、と。そういうことだ。
 そして、そんな決まり事があるからこそ、僕は彼女のことを意識して見たのであり、そのことが後に笑えもしない喜劇の幕を開くきっかけになったと考えれば――こういう言い方は卑怯かもしれないけれど、彼女を殺したのは、この心底くだらない校則だったとも言える。

 だけどまあ、この時点ではそんなことなんてこれっぽっちも関係無くて、僕はただ単純に、確実に没収されるであろう派手な色の靴を履いている見慣れない女の子に対して、注意を促してあげるべきか、それともこのまま知らんぷりをして登校するべきかについて考えていて、そして、あとで聞いた話によれば、彼女は彼女で、新しく通うことになった高校がどんなところか、なんてことを考えて、不安やら期待やらで胸を高鳴らせていた(この部分に関しては、正直眉唾物だと思う。彼女が胸を高鳴らせることなんて、心室細動でも起こさない限り有り得ないはずだから)らしい。そんな風にして、僕は彼女の後ろ姿をちらちらと見ながら、彼女は正面をじっと見つめながら、特になんの進展もなく歩いていく。その内に、僕が通う、そして今日から彼女が通うことになる(この時点ではまだ、彼女が転校生であることを僕は知らなかったのだけど)学校の、何故か貧相に見える校門と、そして、その前に立って生徒達を睨み付ける教師の姿が視界に入った。
 今がたぶん、ラストチャンスだ。これ以上進んでしまうと、あの教師に見つかってゲームオーバー、彼女の靴は奪われることになる。声をかけるなら今しかない。だけど、そういう他人に対する親切ってものに、僕は全然免疫が無くて(親切にされるのにも、するのにも、だ)、こんな時、どんな風に声をかけていいのかこれっぽっちも分からない。
 こんな時に君がいてくれたら、なんてことを思ったりもする。だけど、いたとしても結果は同じだろう。むしろ君なら「あんなの履いてくる方が悪いんだよ」なんて台詞をクールに吐いて、脇目も振らずに突き進んでしまうんじゃないだろうか。「今日は日直だから」と先に家を出た君の、付いてきて欲しそうな後ろ姿を思い出しながら、僕は小さく苦笑した。
 要するに、僕もそうすれば良いんだ。
 他人がなにをしようと、どうなろうと、そんなのって全然僕には関係のない話なのだから。ここで僕が彼女に声をかけなくたって、誰に責められる謂われも無い。誰かに対して何かをしたことで責められるのならまだ分かる。だけど、何もしなかったことを責められるなんて、ちょっと意味が分からない。だから、まあ、とりあえずここは、なにも見なかったことにして――。
 そんなことを考えながら、視線を再び彼女に送った僕は、もう何もかもが手遅れになってしまっていることを知る。
 僕の数メートル先を進んでいた彼女に、例の教師が声をかけていた。その目は獲物を狙う肉食獣(と呼ぶのは、ちょっと格好良すぎるかもしれない)みたいに細められていて、ああ、間に合わなかったんだな、なんて、あまりにも手前味噌なことを僕が考える間もなく、教師殿は糸を引きそうなねちねちとした口調で尋問→説教→没収の3ヒットコンボの一撃目を放った、というわけだ。
 こうなってしまったら、もうどうしようもない。僕は何故か安堵しながら、恐らくはお定まりの台詞を吐いているのであろう教師と、その前に立って(というか、立たされて)じっと自分の足元を見つめたまま何も言おうとしない彼女のそばを通り過ぎようとした。そんな僕に、目がカメレオン並に動くんじゃないかと思えるような、そんな目聡さを発揮した教師が、
「挨拶は!?」
 と、意味もなく恫喝する口調でがなった。
 僕は立ち止まり、仕方なく会釈をしてみせながら、
「……おはようございます」
 もごもごと、口の中で呟いた。
 なんとなく「声が小さい!」なんて一昔前のスポ根ドラマみたいなことを言われそうな予感がしたけど、幸いにして教師は小さく舌打ちをしただけで、すぐに視線を僕から彼女に戻した。もう行って良い。そういうことなんだろうと僕は判断した。
 そして、教師に釣られたわけじゃないけれど、何気なく彼女の方を見て。
 その目が、僕をじっと見つめていることに気づいた。
 君のそれにも似た、深く澄んだ瞳。なんだか見透かされているような目だった。
 その視線が僕を責めているような気がして、僕は少し慌てた感じで目を逸らして、足早にその場を立ち去った。僕は悪くない。そんな、全くもって意味のない自己弁護の言葉を、頭の中に思い浮かべながら。

 昇降口のところで、一度だけ彼女達の方を振り返った。
 教師は相変わらず何かを喋っていて、
 そして彼女は――何故か僕を、正確には、僕の足元の方を見つめていた。


 そんなことがあってから、約二十分後。
 ショートホームルームが始まるまでの短い時間を、ぼんやりと窓の外を見て過ごした僕は、担任の女教師(三十八歳独身趣味はお見合い特技は嫌味)が、彼女を引き連れて教室に入ってくるに至って、まあこんな事もあるんだろうな、なんて弛緩した驚きをもって、新しいクラスの仲間を迎え入れることになった。
 転校生。なるほど。だったら靴のことについて知らなくても仕方が無い。僕はそう思うけれど、例の生活指導の教師が同じような考え方をしているかどうかは分からない。どうなんだろう? 結局靴は没収されてしまったんだろうか? だとしたら、災難だったとしか言いようがない。
 ご愁傷様。
 女教師(三十八歳独身趣味はお見合い特技は嫌味)に促されて自己紹介を始めた彼女にむかって、そんな、まったく誠意のこもっていない言葉を呟いてみた。誰にも聞こえないくらいの声量で。そう、聞こえなかったはずなのだけど。それなのに彼女は、一瞬だけ言葉を止めて、そして、ついさっき校門のところでやってみせたように、僕に向かって見通すような視線を向け――でも、それ以上はなんの行動も起こさないで、実に当たり前に自己紹介を終え、彼女は女教師三十八歳(以下略)の誘導に従って、教室の後方、僕から見て後ろに二列、左に三列行った位置に用意された席に向かって歩き出した。席に着く途中、僕の隣を通り過ぎるとき、またちらりとこちらを見たような気がするけど、その時僕は意識的に彼女の方を見ないようにしていたので、確証は持てない。たぶん気のせいだとは思う。
 思うけれど……なんだかすごく、居心地が悪い。
 彼女の行動のひとつひとつが、どこか遠回しに僕を責めているみたいに感じられる。もちろんそれは僕の思い過ごし(いや、むしろ被害妄想の域に達している)に違いない。この時には、そう思っていた。全ては結局他人事で、僕の生活にはなんの影響も及ぼさないことだ、と。そう信じていた。

 だけど、そんな僕の、コンデンスミルクがたっぷりと入ったベトナムコーヒーみたく甘っちょろい考えは、朝のショートホームルームから約八時間後、いつも通りに(多少は彼女のことを気にしつつも)授業を終えて、君が日直の仕事を終えるのをぼんやりと待ち、いつもより十五分ほど遅れて迎えに来た君と、二人で昇降口まで歩き、そして、下駄箱の自分の棚から靴を取り出そうとした時には、あっさりと覆されてしまった。
 僕の靴が無かった。棚に貼り付けてある名札を確認し、ついでに上下の棚を開けてみて間違えて他人の棚に靴を入れたわけでもないことを確認し、さらには日頃の自分の行いを鑑みて、靴を隠して喜ぶような幼稚な友人(あるいは敵対者)が存在しないことを確認して――それでもやっぱり、靴がどこに消えてしまったのかなんて、僕には分からなかった。
「どうしたの?」
 一足先に靴を履き替えた君が、僕の側までやってきて、そう訊ねた。
「靴がない」
 僕はただ一言、事実のみを告げた。それ以外に伝えられることなんて無かった。
「……なんで?」
「いや、僕に聞かれても」
 それはこっちの台詞だ。僕の方こそ教えて欲しい。なんで、靴が無いんだ?
 ……いや、まあ、この際それは置いておこう。無いものは無い。それだけだ。いくら考えたって、僕が思考するだけで現実を書き換えられる異能の持ち主でも無い限り、瞬時にして靴が湧いて出てくるなんて奇跡は起こりようがない。オーケイ。クールに行こう。靴はない。だったらどうだっていうんだ? 靴が無いなら、僕はどうすればいいんだ?
「職員室、行く?」
 君は小首を傾げて、そんな台詞を吐いた。勘弁してくれ。確かに職員室に行って事情を話せば、代わりの靴を貸してくれるだろう。だけど、その貸してくれる靴が問題なんだ。あんなボロボロの、薄汚れた(こんな日本語はないだろうけど、それでも敢えてあれらの靴について形容するなら、厚汚れた、という表現の方が似つかわしい)、そしてなにより異常に臭う靴を履くくらいなら、僕はシューレスボーイを気取る方を選ぶ。
 そんな決意を君に伝えようとして(伝えたら伝えたで、いつもみたく鼻で笑われるに決まってるのだけど)、だけど、結局僕はなにも言わないで、ただ、視線を彼女の靴箱に向けた。
 それは単なる思いつきに過ぎなかった。ただなんとなく、僕は彼女の棚を開けて、中を覗き込み、そしてそこに赤いオールスターでも校内用のスリッパでもなく、職員室で絶賛レンタル中の、例のオンボロ靴が納められているのを発見する。
「……なるほど」
 疲れた声で呟く僕に、君は怪訝な色を浮かべた顔で、
「なにが、なるほど、なの?」
 そう問うてきた。
 僕はその質問に答えず、スリッパのままで帰路に就く。
「あ、待ってよ――」
 慌てて僕の後ろをついてくる、君の気配を感じながら、僕は心中で大きなため息をついた。
 まあ、そういうことなら仕方が無い。彼女の気持ちも分からなくはない。
 確かに、あんな靴を履いて帰るくらいなら、他人の靴を盗んでそれを履く方が遙かにマシだ。
 反省文も書かず、説教も喰らわず、だけどその代わり、お気に入りの靴は永遠に帰ってこない。それでも良いというのなら、確かに僕だって同じ方法を採るだろう。
 だけど、その盗まれた人間っていうのが、よりにもよって僕だという辺り――。

 やっぱり恨まれているのだろうか、なんて。
 そんな事を考えてしまうのだった。


(2)

 翌日。
 君と二人、連れ立って家を出た僕は、昨日抱いた疑問の解答を、朝の昇降口で得ることになった。人混みがあまり好きじゃない僕らは、普段から他の生徒より少し早い時間に登校することにしていた。だから、まだほとんど人影のない昇降口に、彼女が独りぽつねんと立ち尽くしている様を見て、僕は、一体この女の子は何時からこうやって待っていたのだろうか、なんてことを考えてしまった。そう、これは僕の勝手な思いこみに過ぎないのだけれど、彼女は待っていたのだ。誰を? 決まってる。この僕を、だ。理由は――まあ、言うまでもない。
「先、行ってて」
 急に立ち止まった僕と、その視線の先にいる彼女とを、なんとなく剣呑な目つきで見比べていた君に向かって、そんな言葉をかけた。
 君は一瞬だけ躊躇うみたいに僕の顔を見つめて、そして、僕の瞳の中に映る君自身に、問いかける視線を投げかけて、
「…………分かった」
 なにかを妥協するような、聞き分けのない子供に従ってあげるような、寛容ぶった声音で、そう応えた。僕は君のそんな仕草が大嫌いだ。だからといって、それを止めさせることが出来るほど、僕は君に対して優位に立っているわけでもない。むしろ、逆。たとえそれが間違いだとしても、僕は君に大きな借りを作っている。償わなければならない、とても大きな罪を抱えている。繰り返しになるけれど、それは明らかに間違ったことで、他の人間にしてみれば、実に馬鹿馬鹿しい二人だけのごっこ遊びなのだけれど――それでも、罪は罪、罰は罰だ。偽りの罪に対して、偽りの罰を与える。そんな君の態度は、それほど間違ったものじゃない、と。僕はそう思う。
 ともあれ、君は最後に一度だけ僕の目を見つめ、その後は一度も振り返らず、彼女の方に視線を向けることもなく、ただ足早に立ち去り、そして朝の昇降口には、僕と、彼女だけが残された。二人きり。なんの偶然かは知らないけど、君が立ち去るのと同時に、何故か他の生徒達までいなくなっていた。まあ、こういうこともあるんだろう。
 僕は意味もなく肩をすくめ、足早に彼女の隣を通り抜け(僕の方から話しかけるのは、なんとなく違うような気がした)、自分の下駄箱からスリッパを取り出そうとして――スリッパは、昨日履いて帰ったままだという事を思い出す。ああもう、畜生。そんなことさえ忘れていた自分に腹を立てながら、僕はとりあえず今日履いてきた分のスニーカーを下駄箱に収めようと手を伸ばし、そこに、昨日無くなったはずの靴が納められているのを見つける。僕は一瞬だけその靴を見つめた後、肩越しに振り返って、僕の後ろ姿を観察するみたいな目つきで見つめていた彼女に、声をかけた。
「――ちゃんと返してくれたんだね」
 微妙に皮肉の混じった言葉に、彼女は口元を歪めた。たぶん、笑っているつもりなんだろう。
 その表情をじっと見返しながら、こういうあまり女の子らしくない仕草がひどく似合う子なんだなと、ガラにもなく僕は思った。思いながら、訊いた。
「で? なんで僕の靴なの? 盗むんなら、もっと上等なヤツを選べば良かったのに」
 僕の疑問に、彼女は目を細めて、なんとなく睨み付けるみたいな顔を作ってみせた。
 まるで悪いことをしたのは僕なんじゃないかと思える表情。ちょっと待って欲しいものだ。
 なんで僕がそんな目で見られなきゃならない? 僕か? 僕が悪いのか?
 そうやって、何秒くらい睨み合っていただろうか。彼女は不意に視線を逸らして、また僕を見て、そしてまた視線を逸らして――最終的には、僕のつむじの少し上辺り、出席番号6番川村恵一くんの靴箱を見つめながら、言った。
「昨日の朝、見てたのに助けてくれなかった」
 勘弁してくれ。そんなのが理由なのか? それなら、あの場にいた他の生徒の誰にだって、平等に盗まれる権利はあったってことじゃないか。なんでその中から、よりにもよってこの僕が選ばれなきゃならないんだ?
 僕は、そんな台詞が湧きだしてくるのをぐっと飲み込んで(ちょっと女々しいかな、なんてことを思ったから)、それでも我慢しきれなくて、結局、ただ一言だけ言葉を返した。
「……だって、そんな義理は無いだろ?」
 彼女は視線を下ろし、再び僕の顔を見ながら、
「あるよ。校門くぐる前、じっとこっちを見てたもの」
 断罪する口調で言った。
 確かに、僕は彼女を見ていた。そして悩んでいた。
 だけどそれがなんだっていうんだろう。僕が彼女を見ていたことと、彼女が僕の靴を盗むことに、どんな繋がりがあるっていうんだろうか。
 分からない。分からないから訊いてみた。
「それが、なにか?」
「あのときキミ、なにか言いたそうな顔してた。他人の気持ちなんてわたしには分からないけど、それでもあえて推理するなら――あれは、『そんな靴履いてたら没収されるよ』って言おうかどうか、考えてる顔だった。でも、結局は言わなくて、おかげでわたしは靴を没収された」
 買ってまだ、三回くらいしか履いてなかったのに、と。
 微妙に哀れっぽい口調で彼女は言った。
「……濡れ衣だ」
 そう、そんなのって濡れ衣以外の何者でもない。不良お得意の「お前今ガンつけただろ?」なんて言いがかりの方が、まだ説得力がある。いや、迷惑なのはどちらも似たようなものだけど。そんな僕の考えが、たぶん顔に出ていたんだろう。彼女はさらに強く僕を睨みながら、さらに言い募った。
「疑わしきは罰せよって、日本国憲法にも書いてある」
 僕は即座にツッコミを入れる。
「書いてない。大体それは憲法じゃない」
 自分でも惚れ惚れするくらい素早い切り返し。会心の一撃っていうのは、たぶんこういうののことを言うんだろう。心の中で思わずガッツポーズを決めた僕とは逆に、彼女は言葉に詰まり、視線を泳がし、そして――信じられないことに、開き直った。
「どうでも良いよ。とにかく、これは仕返しなんだから」
 チェックメイト。逆転の一打。重ねて言うならラストリゾート。
 女の子が「とにかく」だの「どうでも良い」だの「そんなの関係ない」だのと言い出したら、その時点でもう、男の僕に勝ち目はない。これは君が教えてくれたことだ。出来れば教わりたくない事実ではあったけれど、口喧嘩で一度も君に勝てたことがない以上、たぶん彼女の場合も同じ事なんだろうと思う。
 僕はついさっきまで掲げていた勝利の拳を、心の中でそろそろと降ろしてみせながら、
「……まいったな」
 なんて、あまりにも独創性に欠ける台詞を吐いていた。
 実際のところ、まいった以外に言える言葉は無かった。



 なんにせよ。
 こんな馬鹿げたエピソードから、僕と彼女のお話は始まった。


(3)


 彼女と二人きりで話をしたことなんて、考えてみれば数えるほどしかない。
 だけど、そんな少ない経験のなかにだって、それなりに記憶に残る出来事はある。
 たとえば、彼女が転校してきてからまだ一月も経っていない頃の、ちょっとしたイベント。

 その日僕は、常日頃からの習慣に従って屋上へと足を踏み入れていた。
 白昼夢みたいに短い春は過ぎ去り、雨が降るたびに皆が「もう梅雨だね」なんてことを話題にし始めた頃。皮膚を透過して内臓さえも水浸しにしてしまいそうな、そんな、嫌らしい湿気を帯びた、雨上がりの放課後だった。もちろん屋上に人影は無かった。こんな不快指数の高い日に、空調の利いた校舎を出て屋上に上がってくる人間なんて、よっぽどの変わり者かあるいは後ろめたいことをしようとしてるヤツだけだろう。そして笑ってしまう話だけれど、僕はその両方に当てはまっていた。
 僕は校舎の端まで歩き、じっとりと濡れた手すりにもたれかかって空を見上げた。
 紅い。手をのばせば、ぐん、と引き込まれてしまいそうなくらいに紅い色が頭上を満たしていた。いつもいつも疑問に思っていたのだけど、雨上がりの夕焼け空って、どうしてこんなにも鮮やかなんだろう。
 このまま空に墜ちてゆければ。目を閉じながら思う。それはそれで、とても素敵なことだ。あまりにも素敵すぎて、僕には相応しくなかったけれど。
 意味もなく嘆息して、僕は学生服の尻ポケットから煙草を取り出した。すっかりひしゃげてしまった紙パッケージから、惨めったらしく曲がったマールボロを一本抜き取ってくわえる。そして火をつけて最初の一口を味わおうとした、その時、視界の端に動くものが見えた。最初は見回りの教師だと思った。もうすぐ夏が来るとはいえ、この時期の日没はそれなりに早い。今はまだ紅いこの空も、あと半時間も経てば、暗い色をした星空のドレスをその身に纏うことだろう。そうなる前に、面倒臭がりの教師が屋上を閉鎖してしまおうと考えるのも当然だった。
 面倒だな、と思った。喫煙行為が見つかった場合の処分は無期の停学か、あるいは退学。どちらにせよ、あまり楽しい未来は予想できない。ここでもし、慌てふためいて煙草を投げ捨て、弁解のひとつでもしてみせたなら、多少は処分を軽くしてもらえるだろうか。少なくとも開き直るよりは良い印象を持ってもらえるだろう。だけど、それすらも面倒だった。だから結局僕は、背中を預けていた手すりに振り返って肘を乗せ、視線を眼下に広がる街並みに向けることを選んだ。現実逃避。
 逢魔が刻の街並みは、どこか落ち着かない印象を見る者に与える。昼でも無く夜でもない時間帯。つい先ほどまでは生命力に満ちた明るさを放っていた街が、急ぎ足で訪れようとしている闇の気配に戸惑っているような、状況の変化についていけない苛立ちを夕焼けの赤さという形で発散しているような、そんなイメージ。僕は煙草をくわえたまま苦笑する。くだらない感傷だ。
 背後からゆっくりと近づいてきていた気配が、不意に僕の隣に並んだ。
「紅いね」
 緩やかに風が吹き、それに乗って声が届いた。独り言のような、誰かに何かを伝えようとする意図の感じられない声。視線を向ければそこに彼女の姿があった。僕と同じように肘を手すりに預け、その上に顎をおいた姿勢で長い髪を風に揺らし、目を細めて街並みを見つめていた。教師ではない。この学校にセーラー服を着た教師はいない。
「紅いね」
 と、彼女はもう一度言った。今度はこちらを横目に見ながら。その言葉が自分に向けられているものだと気づくまで、少し時間がかかった。誰かに話しかけられるのなんて、とても久しぶりだったから。そして、話しかけてきた相手が、よりにもよって彼女だったから。
「そう、だね」
 掠れた声で言葉を返す。答えた拍子に、唇からぽろりと煙草が落ちた。うわ、と思う間もなく、煙草は床に落ち、転がって彼女の足元近くで止まった。勿体ない。まだほとんど吸ってなかったのに。そんな貧乏くさいことを僕が考えているうちに、彼女は、奇跡的にも水たまりを避けて転がった煙草を拾い上げて、当然のような顔をして口元に運んだ。
「あ」
 小さく声を洩らす僕の目の前で、彼女は深々と煙を吸い込み、吐き出してみせ、

 そして、派手にむせた。

 涙を流しながらせき込む姿に、慌てて彼女の背中をさすった。そうすることで何がどうなるとも思えなかったけれど、それ以外に出来ることがなかったから。
 数十秒後、なんとか落ち着いた彼女は、目尻に浮かんだ涙を指の背で拭いながら、
「死ぬかと思った」
 と言って笑った。花が咲くような、なんてありきたりの比喩が赤面して逃げ出しそうなくらい、それは魅力的な笑顔だった。
「煙草吸うの、初めて?」
 彼女の手から煙草をそっと取り上げて、僕は訊ねた。
「うん」
「感想は?」
「……なんか、乾燥した馬糞に火を点けて吸ってるみたいな味」
「乾燥した馬糞に火を点けて吸った経験があるの?」
「あるわけ無いでしょ」
 怒ったように早口でそう答えて、彼女はまた笑った。
 唐突に……本当に唐突に、まるで道を歩いていたら空から東京ドーム一杯分のジャーマンポテトが降ってきた、というくらい何の脈絡もなく。彼女の笑顔をずっと見ていたいと思った。その想いはもの凄い速さで僕の全身を駆けめぐり、脳内に飛び込んで内側から僕に揺さぶりをかけた。一目惚れ。そんな単語が眼球の裏でネオンサインみたいに点滅した。馬鹿げてる、と、僕は口の中だけで呟く。本当に馬鹿げてる。でも、嫌な気分では無かった。混乱はしているけれど。
 そう。僕は混乱していた。だから、彼女から受け取ったまま放っておいた煙草を無意識のうちにくわえてしまったとしても、それは決して責められるべきことではないはずだ。
「あ」
 今度は彼女が驚く番だった。
「え?」
 と、彼女の顔を見返した途端、僕は自分がしでかした事の意味に気づいた。
 間接キス。
 僕が落とした煙草を彼女がくわえた時点でそれは一度成立していたのだけど、あまりにも自然に行われた行為だったから、僕はその意味を見過ごしてしまっていた。だけど今度は違う。僕は自分で行い、自分で気づいた。ぼ、と火がついたみたいに顔が熱くなる。自分で自分の顔を見ることは出来ないけど、そんなことしなくてもはっきりと分かる。今の僕は、まるで林檎みたいに真っ赤な顔をしていることだろう。ひどく滑稽だと思う。
 だから、そんな僕の顔を見て彼女がこらえきれずに吹き出しても、不愉快には思わなかった。
「純情なんだ?」
 からかうような視線をこちらに向けて言う彼女に、
「そうかな?」
 蚊の鳴くような声で答えた。
「そうだよ」
 気持ちよく断言して、彼女はまた笑い、
「そう、かもね」
 僕も笑った。
 二人の笑声が重なり、響き、余韻を残して消えていった。

 お互いの笑いが収まり、どこか居心地の悪い沈黙が二人を包んだ。
 彼女はふい、と僕から視線を逸らして、再び紅い空を見上げ、そして僕は、特に意味もなく彼女の横顔を見つめていた。なんだろう。なんで僕は今、「なにか言わなくっちゃ」なんてことを考えているんだろう。そういうのって、全然僕らしくない。もしも今の僕の姿を、君あたりに見られようものなら、きっと、真顔で心配なんかをされてしまうんじゃないだろうか。
 ――お兄ちゃん、なんか変だよ?
 うん、たぶんこんな感じだ。眉をひそめて眉間に皺を寄せ、僕の瞳をじっとのぞき込みながら――。そんな君の姿を脳裏に思い描いて、僕はひとり苦笑し、そして、次の瞬間には愕然としていた。おい、なんだって僕は、こんな時にまで君のことを考えているんだ?

「ねえ」
 頭の中から君の姿をどうにか追い払おうと、意味もなくかぶりを振る僕に、彼女が声をかけてきた。慌てて視線を向けてみるけれど、彼女は僕の方なんて見てなくて、ただ透明な瞳で空を見上げていて。気のせいだったかな、なんてことを僕が考えた瞬間、それを否定するみたく、
「ねえ」
 彼女は、僕の方をちらりとも見ないで、繰り返した。
「なに?」
 僕は答えた。彼女の横顔をぼんやりと見つめて。
「まだ、帰らないの?」
「……そうだね。そろそろ帰ろうか」
 別に、彼女を誘うつもりでそんな言い方をしたわけじゃない。ただなんとなく、自分自身に問いかけることが僕の癖みたいなものだから、それで、こういう語尾になってしまっただけだ。
 でも彼女は、それを自分に対する言葉だと受け取ったみたいで、
「わたしは、良い。もう少しここにいる」
 そんな応えを返してきた。日本語って難しい。
「そう」
 僕は小さく頷いて、とっくに根本まで灰になってしまった煙草を放り捨て――ようとして、だけど思い直してそのままポケットに突っ込んだ。なんとなく、彼女の前でそういうことはしたくなかった。吸い殻と一緒にポケットに入れた手を、意味もなく握り締めて、僕はなんとなく祈るみたいな声音で(馬鹿馬鹿しいとは思うけど)問いかけた。
「ねえ」
「なに?」
 ついさっきのやり取りを、そのまま逆にしたみたいな受け答え。
 見る人によっては苦笑くらいならしてくれそうな雰囲気だけれど、残念ながら僕にはこれっぽっちも笑えなかった。ただ、自分でも信じられないくらいに真剣な――心のこもった(科学全盛の二十一世紀に、心、だってさ。非科学的な話もあったものだ)声で、言った。
「好きになったかもしれない」
 それはある意味ではマニフェストだ。僕に対する、彼女に対する、そして君に対する。このころの僕にはそれが――君との関係に抗うことが――それなりに意味を持った行為であると思えていて、そのためにはまず君以外の誰かを強く思う(この際、好意でも敵意でもなんでも良かった)ことが必要だったし、なにより、もっと単純に、僕は彼女に対して、本当に好意を抱き始めていた。
「誰が?」
 彼女が問う。空を見上げたまま。
「僕が」
 僕は答える。視線を彼女から外し、校舎内に続く階段に向かって、一歩踏み出しながら。
「誰を?」
 彼女が問う。視線が、こちらを向いた気がした。たぶん僕の気のせいだけど。
「貴女を」
 僕は答える。振り返らないで、特に急ぎもしない代わりに、引き留められる為の緩慢さを用意する事もなく。そのままの、普段通りだと自分では思える早さで屋上を横切って、降り口の扉に手を掛けた。彼女はなにも言わない。すこし錆の浮いたノブを捻ると、軋るような音がした。誰か油差せよ、なんて他人任せのことを思いながら、僕は扉を押し開いて、校舎内に足を踏み入れた。彼女はなにも言わない。なんとなく、ため息が漏れた。後ろ手に扉を閉めて、そのまま階段を降りようとしたところで――かすかに、風の音と間違えてしまいかねないくらい、聞き取りがたい声で。

「――どうして?」

 そんな言葉が聞こえた気がした。



(4)


 それからの展開は、特に話す必要もないと思う。
 以前にも話したことがあるとおり、僕の決意は君によっていとも簡単に打ち砕かれ、無惨に捨て去られ、そして、消えていった。僕が彼女に言った「好き」という言葉は、そのままどこか遠く(例えば、ウェブの片隅の、誰の目にも留まらない寂れたホームページ、とか)に流れ着いて、それなりに幸せに余生を過ごしているのだろうと思えた。

 だけど、それはきっと僕の思い過ごしで。
 つまるところ、僕は自分が思っているよりもはるかに諦めが悪い男で、一度口にした言葉を簡単に捨てられるほどには大人になっていなくて。
 ……要するに、だ。


 僕はまだ、彼女のことを忘れられなかった、と。
 そういうことだ。


(6)


 軋んだ音を立てて、屋上への扉が開いた。
 その音を背後に聞きながら、僕は曇り空を見上げていた視線を一度だけ眼下に広がる街並みに落とし、そして、一呼吸を置いてから、ゆっくりと振り返った。
 彼女が、いた。
 かすかに吹く風に、ツインテールに結んだ髪をなびかせて、彼女が立っていた。
 彼女は僕に向かって真っ直ぐな視線を寄越したあと、空模様を心配するみたいに空を見上げ、僕の背後に広がる街の風景に目を転じ、そしてまた、僕の顔を見返した。
「――話って、なに?」
 焦らす仕草でゆるゆるとこちらに向かって歩み寄りながら、彼女はそう訊ねた。
 僕は答えない。答えないで、制服の内ポケットに手を差し入れて――そこに煙草が入っていないことを思い出すと(そういえば、君に禁煙しろと命じられていたんだっけ)彼女に聞こえないくらいの音量で小さく舌打ちした。仕方がないことだ。こういう状況で間を持たすことが出来ないのも、ある意味では僕の生き様なんだと思う。
 僕は小さく息をついた。
 そして、彼女の顔を見つめて、いつも君がするみたいに、彼女の瞳の中に映る僕自身の姿を探しながら、言う。
「この間の、好きってアレ――」
「取り消しなんでしょ? ちゃんと覚えてるよ」
 結構ショックだったからね、なんて。彼女は苦く笑いながら、僕の言葉を遮った。
 僕は首を横に振って否定の意を示し、
「取り消しって言ったのを、取り消させて欲しい」
 そんな台詞を紡いだ。まるで宣誓するみたいに。実に往生際の悪い話だけれど。
 そして、時が止まった。辺りは重たい沈黙に包まれ、風さえもが吹き止んだ。
 彼女は黙ったまま、こちらの真意を探るみたいに、じっと僕の顔を見つめ、僕は僕で、自分がどれだけ情けない台詞を吐いてしまったかを今さらながらに噛みしめて、だけど、一歩も退かなかった。こんなのって、ただの意地っ張りでしかない。今さら彼女に告白し直したって、なにがどうなるとも思えない。だけど、それでも――。
 時は動き出す。
 彼女が、大きなため息をついた。
 それはまるで、深呼吸にも見えるくらいに大きなため息だった。
 彼女はもう一度同じ動作を繰り返し、僕の顔から視線を逸らし、なんの意図があるのか分からないけれど、ツインテールの髪先を、ぐじぐじと弄んで、そして、あのね、と。
 噛んで含めるような口調で、長く長く語り始めた。

「他人に期待なんてしないで。他人にほんの少しだって自分を任せたりしないで。他人に任せるってことはね、自分じゃない何かに――絶対に理解なんて出来るはずもない、得体の知れない何かに任せるってことと同義なんだよ? キミは、わけのわかんない謎だらけの生物に自分を預けて平気なの? 自分が陥った不本意な状況を改善してくれることを期待するの? その上、なに? 他人が――キミとは違う意志をもってキミとは違う行動をとるキミじゃない誰かが、キミの望みを叶えてくれなかったら、裏切られたって文句を言うの? わけのわからない謎の生き物に――他人に頼ったのは自分なのに? それなのに、裏切られたって? キミ、馬鹿? ううん、疑問形で投げかけるべき言葉じゃないよね。断言するわ。キミ、馬鹿。他人に頼るようなヤツは馬鹿よ。……ねえ、良い? 自分自身のことさえ不可解なのに、自分の為すべきことを自分の手で行ってすら不測の事態とかいうのが発生しちゃうのに――つまりは自分に裏切られちゃうことがあるのに、これ以上不確定な要素を増やしてどうしようっていうの? カオスをさらにかき乱すような真似をしてどうなるっていうの? 混乱するだけでしょうに。失敗する可能性が増すだけでしょうに。そんな真似しといて、私は被害者です裏切られました傷つけられました他人が悪いんです、なんて言うわけ? ふざけないでよ。他人に頼ったのはキミでしょ? キミが悪いんでしょ? 誰もキミを裏切ったりなんてしてないの。裏切ったのはキミ。キミ自身よ。自分を信じられなくて他人なんかに頼ってしまった弱さこそが、キミの足元を掬うんだよ。もしわたしが男で、キミに今言うべきことがあるとしたら、きっとこう言うよ。『自分で自分のケツも拭けねえんなら、最初っから糞なんぞ垂れてんじゃねえってんだよ。自分のことは自分でやる、てめえのケツはてめえで拭う。そりゃ当たり前のことだろうが! そんなことも分からねえ野郎がアホ以外の何者になれるってんだ、ああ!?』……ってね。自分にやれることは自分でする。自分に出来ないことには最初から関わらない。つまりは身の程を弁えろってこと。自分の欲望に他人を巻き込むなってこと。分かる? くどくどくどくど下らないことばかり垂れ流してきたけどね、要はこういうことなの。わたしはキミと恋愛したいとは思いません。キミのために何かをしてあげるつもりも、キミに何かをしてもらうつもりもありません。わたしに期待しないでください。わたしに頼らないでください。わたしに依存しないでください。わたしを――好きになんて、ならないでください」

 一気にまくし立てると、彼女はまるで酸欠の魚みたいに、大きな口を開けて、また深呼吸(あるいは嘆息)をしてみせた。僕はと言えば、初めて聞く彼女の長広舌に、ぐうの音さえも出ない。いやはや。ここまで長々と、そしてはっきりと言われてしまうと――なんの感慨も、言葉も、頭のどこにも浮かんでこない。
「……分かってくれた?」
 先ほどまでの勢いとは打って変わって、こちらの顔色を窺うように、上目遣いで僕を見る彼女。僕がなにも答えないものだから、自分の意図がちゃんと伝わったのか不安になったんだろうか。だとしたら、そんな不安は抱くまでもないことだと思う。
 僕は軽く肯いて、応えた。
「……要するに、僕は失恋した、と。そう思って良いんだね?」
 そんな言葉に、彼女はにっこりと(この状況で浮かべるべき表情ではないと思う)微笑んで、大きく首を上下に振って見せた。やれやれ。
「大体、キミには妹さんがいるじゃない」
 そんな台詞まで吐かれる始末だ。誰か僕を助けて欲しい。いや、自業自得とか、そんなこと言ってないでさ。頼むよほんと。
 僕は誰にともなく愚痴りながら、また、嘆息した。こんなとき、ため息を吐く以外に出来ることがあるって言うのなら、教えて欲しいものだ。

 ともあれ、僕の第二次脱出計画兼告白計画は、彼女の拒絶によって良い感じで失敗の憂き目にあうこととなった。あれだけ言いたい放題言われておいてなんだけど、それでもやっぱり僕は、彼女のことが好きなんだと思う。好きだけど、だからどうしようとか、あるいはどう出来るという話でもない。道は絶たれた。もうどうにもならない。だけどなんとなく、君との関係に、なんらかの変化を与えるための指針を、手に入れることは出来たような気がする。たぶん気のせいだとは思うけど。

「……僕はもう帰るね」
「わたしはまだ良いよ。もう少し、風景見てく」
「そう」
「うん。……じゃ、また明日」

 最期にそんな会話を交わして。
 僕たちは別れた。僕は家路に就き、彼女はその場に残った。
 もしこの時、無理にでも彼女を誘って二人で帰っていれば、これからの展開ももう少し違ったモノになったかもしれない、なんて、後々僕は思うことになる。だけど、そんなのって意味のない想像だとも思うのだ。たとえこの時なにも起こらなかったとしても――やっぱり、結末は同じだったはずだから。遅いか早いかの違いだけで、結局――彼女は、死んでいたと思うから。


 ほんの少しさっぱりした気分で、マンションの自室のチャイムを押す。
 返事はない。もう一度押す。やはり返事はない。
 いつもなら、五秒と待つこともなく、君が現れて「おかえり」の言葉とともにドアを開いてくれるのだけど――。
 念のためにドアノブを捻ってみる。予想通り、施錠されていた。
 どういうことだろう。君の帰りが遅くなるなんて話は聞いていないのに。いや、僕だって連絡無しで遅く帰る日もあるのだから、たまには君が同じ事をしたって文句を言うつもりはない。だけど、今日みたいな日に――僕が、彼女と二人きりで話をしたような日に――こんなことがあるっていうのが、なんとなく気にかかる。そして、僕の悪い予感は大抵当たるのだ。
 僕は小さく肩をすくめて、財布から部屋の鍵を取り出した。
 そして、それを鍵穴に差し込みながら――そういえば、今日の夕飯は君が当番だったはずだけど、なんてことを考えるのだった。まるで、嫌な予感から尻尾を丸めて逃げ出すみたいに。


 結局、君が帰ってきたのは、僕が帰宅してから三十分後。
 あり合わせのもので、取りあえずの夕食を作り終えた頃だった。


(7)


 そして、いつも通りの食後。
 最近の君は、ベトナムコーヒーに凝っているらしい。
 カップの上に直接取り付けた、金属製のフィルターの上から、ゆっくりを熱湯を注ぐ君を、僕はぼんやりと見つめていた。君は僕の視線に気づいているのだろうけど、あえて無視してみせた。なんとなく、不自然な仕草。彼氏でも出来たんだろうか、なんて、年頃の娘を持った父親のような、ちょっと下世話な想像をしてみる。放課後の学校、誰もいない教室で、僕の知らない男の子と向かい合う君。その頬はうっすらと紅潮していて、誰の目から見てもそれは恋する女の子以外の何者でもなく――そこまで情景を思い浮かべて、僕はついに吹き出してしまう。何故だろう? 別におかしな話じゃない。君が誰かと付き合う。ごく普通のことじゃないか。実際、そういったこともあっただろう? 僕の妹は、ついこの間まで、クラスメイトの彼と交際していたじゃないか。だっていうのに――なんでこんなにも、有り得ない出来事に思えるんだ?
「……なによ、気持ち悪い。急に笑ったりして」
 コーヒーカップから立ち上る湯気ごしに、君が、わざとらしく怒った顔で僕を睨み付けた。その顔を見て、僕はさらに発作的な笑いの衝動に襲われる。
「もう、なんなの? お兄ちゃん、今日変だよ?」
「……いや、別に、なんでもないんだけど……」
 なんとか笑いを噛み殺して、僕は応えた。目尻に手を当ててみれば、欠伸をした後みたいに涙が浮かんでいた。そこまで面白かったか? いや、うん。面白かった。今世紀最大のギャグだ。理由は分からないし、他の人が聞いても面白くもなんともないのだろうけど、僕にとっては一番笑える冗談だ。
「そういえばさ」
 カップにコーヒーが降りきったのを確認して、フィルターを取り外す君に、僕は気になっていたことを訊いてみることにした。
「今日、なんで遅くなったんだ?」
「あ、うん。ごめんね。夕飯の用意、サボっちゃった」
「いや、それは別に良いんだけど」
 僕が聞きたいのは、理由であって謝罪じゃない。別に言いたくないことなら言わなくても良いし、無理に聞き出そうと思うほど興味があるわけでもないけれど、でもまあ、答えてもらえるのなら、その方が良い。一応――本当に、一応だけど――僕は君の、保護者代わりでもあるわけだし。
「友達とね、話してたんだ」
 君は黒々としたコーヒーが注がれたカップを、僕の前に置きながら、そう答えた。
 友達?
「……あんな遅くまで?」
「うん。仲良し……だから」
 自分の分のコーヒーに、たっぷりとキャラメルソースを注ぎながら(それは邪道だ、なんて言えるほど、僕はコーヒー通じゃない)、君は僕の方を見ないで言った。正直、嘘臭い。だけど、その嘘臭ささえも、嘘臭い。まるで僕に嘘を吐いていると気づいて欲しいみたいな、そんな仕草。君がその気になれば、僕に不信感を抱かせないように振る舞うなんて、赤子の手を捻るよりも簡単なことのはずなのに。さて、どういうことなんだろう?
 僕は君の様子を観察しながら、ゆっくりとコーヒーを啜った。今日はブラックだ。どちらかと言えば僕は甘党なのだけど、「良い豆だから、そのまま飲んでみて」という君の言葉に従って、何も入れないでいる。……そう命じた君が、糖尿病になりそうなくらいたっぷりと甘味料を入れているのには、なんとなく納得がいかないけど……まあ、詮無きことだと思う。
 しばらくの、静寂。こういう時間は嫌いじゃない。何も言わないで、何も考えないで、ただぼんやりと無為に過ごす。贅沢と言うよりは勿体ない時間の過ごし方だとは思うけど、そんな無駄遣いも、君と一緒ならなんとなく意味があるように思えてくる。……それが、良い意味なのか悪い意味なのかは分からないけど。……否。たぶん、悪い意味だとは分かっているけれど、が正しいのか。
 そんな益体もないことを考えている僕の、喉元辺りをぼんやりと見つめていた君が、不意に口を開いた。
「ねえ、お母さんが死んだ時のこと、覚えてる?」
 ある意味では、それは僕らにとってあまり触れたくない話題だった。何故って、母さんの死んだときのことについては、僕と君の間に、大きな記憶の――あるいは、考え方の――違いがあるから。君は僕が母さんを殺したという。だけど僕は(そしてあらゆる現実は)あの人が自殺したと判断している。僕は今のところ、君が言う方の現実に従っているけれど、この話題に触れるたびに、僕は僕の現実を取り戻しそうになる。そして、君に従い続けている自分に疑問を持ってしまうのだ。それはそれで悪い事じゃない。テロリストを演じる役者が、自分を本物のテロリストだと思いこんでしまったら、それはたぶんとても怖いことだから。だから、たまにはこうして素に戻る必要が、僕には確かにあるのだ。だけど、君にとっては――たぶんそうじゃない。僕が僕の現実を取り戻すことは、君にとってあまり都合の良い話じゃない。だから、君に従う僕は、なるべくこの話題には触れないようにしているのだけど――それを、君の方から口にするなんて。
 珍しい出来事に困惑する僕に向かって、君は、信じられないほど愛らしい笑顔を作ってみせながら、その表情に似つかわしくない、実に物騒な台詞を吐いた。
「あれからしばらく経って、わたし、なんとなく思ったんだ。わたしはお母さんが墜ちてくるところを下から見上げていたけれど――もしも次があるのなら、その時は、上から見下ろしてみたいなって」
 そう、言って。
 君は僕から視線を逸らして、カップに口をつけた。
 対する僕はと言えば――なんの言葉を返すことも出来ず、ただ、呆然と君を見つめ続けていた。まるで阿呆みたいに。いや、断言しよう。過去から現在、現在から未来にかけて――僕は結局、阿呆以外の何者にもなれなかったのだ。彼女が宣言した通り。


(8)


 僕は、君の言葉の意味を、翌朝のショートホームルームで知ることになる。
 いつもよりだいぶ遅れて教室に入ってきた女教師(もはや軽口を叩く気にもなれない)は、開口一番、沈痛な面もちで持って、まるで僕を斬りつけるみたいな目つきで睨みながら(被害妄想。被害妄想だ。そうだろう? たまたま正面に座っていただけだ。特に僕だけを睨んでいたわけじゃない)彼女が、昨日、屋上から墜ちて死んだ、と。そう告げた。
 教室内が、水を打った様な静けさに包まれた。皆が皆、お互いの顔をちらちらと窺いながら、目線だけでこんな台詞を吐きあっているのが感じられる(もちろん勝手な想像だけど)
 勘弁してくださいよ。その冗談は笑えませんよ、なんて。
 僕も同感だった。ちっとも笑えやしない。彼女が、死んだ? 勘弁してくれ。あんた教師だろ? 言って良い冗談とそうでない冗談の区別もつかないのか?
 そんな僕らの視線を受けても、やっぱり女教師は真剣な表情を崩さない。皆がこの人の「ごめん、実は冗談なのよー」なんて台詞を期待しているのに。一分経って、二分経って、それでも女教師は表情を変えず――やがて、その瞳が微妙に濡れていることに目敏い誰かが気づくに至って(思ったより生徒思いの先生だったらしい)、彼女は本当に死んだのだ、と。そう悟ることになった。
 確かに――確かに、実際彼女はこの場にいなかったし、そういえば登校するとき、校舎の脇の方にパトカーが止まっていたような気もするし、なにより――。

 そう、なにより。
 昨日は、君が、遅く帰ってきた。

「……おいおい」
 僕は小さく呟いた。隣の席の女子がこちらを振り向いたけれど、僕はそれを無視して、さらに独白を続ける。
「それは……ちょっと、なあ? 困るだろ、色々」
 隣席の女子は気味悪げにこちらを見ている。だからなんだっていうんだ? 僕にどうしろって? 初めて好きになった女の子が死んで、そして、その女の子を殺したのは――もしかしたら、いや、まず間違いなく――僕の、妹なんだぜ?
 こんなとき、苦笑しながら独り言を呟く以外、どんなリアクションを取れって?
 泣けば良いのか? 怒れば良いのか? なんなら笑ってみせようか?
 ええ、おい?
 誰か教えてくれよ。

 僕は一体――どうしたら良いんだ?


(9)

 結局、その日一日を、僕は機械みたいに過ごすことになった。
 何も考えないで授業を受け、何も考えないで昼食をとり、何も考えないで帰宅し(君を待つことはしなかった)、何も考えないで、夕食、入浴、就寝――。出来るだけ、君の顔を見ないように(正確には、君の目を見ないように)して、僕はこの日をこなすことにした。
 出来れば、今日一日くらいは――君と距離を置いて、考える時間を貰いたかった。
 だけど、そういうわけにも行かないらしい。
 今日という日の全てを終えて、自分の部屋のベッドに逃げ込んだ僕。
 考えるべきことも、為すべき事も、たぶん沢山あるんだろう。だけど、それらに立ち向かうだけの力は、今の僕には残されていなかった。助けてくれ。だれにともなくそう呟く。助けて、助けて、助けて――。誰か僕を、助けてください。僕に、道を指し示してください。
 そんな言葉に応えるように。
 こんこん、と。ノックの音が聞こえた。
 返事をする気にはなれなかった。
 僕は布団を頭まで被り、意識を閉じることに最大限の努力を払った。
 ねえ、僕は間違っていますか?
 こんな時、こんな僕が、君に対して示せる態度が――他にありますか?
 ノックはなおも続く。
 こんこん。
 こんこん。
 こんこん。
 それはまるで途切れることのない僕への責め苦みたいで――そういえば、椅子に縛り付けた上に目隠しをして、なんの物音もしない部屋に閉じこめて、そこに一定の間隔で水を滴らせるっていう拷問法があったな、なんて。
 そんな、ある意味では現状にぴったりと当てはまるような事を考えながら、僕は閉じた目蓋に力をこめて、そして、ノックの音が聞こえなくなる頃には、図太いことに、僕も眠りに就いていた。

 どれくらいの時間が過ぎたのだろう?
 胸の上に微妙な圧迫感を覚えて、僕は目を覚ました。
 真っ暗な室内。エアコンをつけ忘れていたおかげで、どうにもじめじめとした暑さに包まれている。僕は目蓋を擦ろうと、手を目元に運びかけて――その手が、誰かの(誰か、なんて表現は必要ないかもしれない。だって、今この場所にいることが出来る人間は、僕を除けば一人しかいないのだから)身体の下敷きになっていることを知る。
 暗澹とした気分になりながら、僕は自分の上に馬乗りになっている女の子に向けて、声をかけた。
「……どういうつもりだ?」
 ようやく闇に慣れてきた目に、君の、真っ白な裸体が映る。
 膨らみがほとんど見て取れない胸に、そこだけは妙に女性的な曲線を描く腰、足の付け根の陰りは、僕の位置からでは見えないけれど、なんとなく、君が何も身につけていないであろう事は想像出来る。
 本当に、どういうつもりなんだろう。
 別に、君がそういった行為を求めてくることは珍しいことじゃない。少なくとも、僕から求めるのと同じくらいには、ありふれた出来事だと思う。
 だけど、なにも今日でなくても良いんじゃないか?
 今日くらいは――そっとしておいてくれても、誰も君を責めないと思うんだけど。
 眉根を寄せて自分の顔を睨み付ける僕に、君は、乾ききった声で、こんな事を訊いた。
「ねえ、お兄ちゃん。わたしのこと、好き? それとも、嫌い?」
「……止めてくれ。今日はホント、そういうのは勘弁してくれ……」
 叱りつけるというよりは、むしろ懇願する口調で僕は言う。
 こんなのって、あまりにも酷すぎる。
 いくら君のすることでも、度が過ぎること甚だしい。
 そう思わないか? ……思わないんだろうな、きっと。
「良いから、答えて」
 ほら。やっぱり。
 いつだってそうだ。いつだって君は僕の気持ちなんてお構いなしで、ただ、自分の世界を維持するためだけに僕を使役する。それが悪いことだとは言わない。僕だって、君に従うことを受け入れてはいるんだ。君が望むなら、大抵のことはこなしてみせるさ。だけど、本当に、今日だけは――。
 それでも、君は許してくれない。君は僕の瞳を見つめたまま、じっと応えを待ち続けている。たぶん、いや、絶対、僕が返事をするまで退いてはくれないんだろうな、なんて、諦めに満ちたため息をつきながら、僕は、疲れ切った声で問い返した。
「嫌いって言ったら、どうなるのかな」
「それは……悲しいね。悲しくて悲しくて悲しくて、悲しすぎて、たぶん、わたしはお兄ちゃんを殺しちゃうと思う。殺して――食べちゃうと思う。お兄ちゃんを誰にも渡さないように、どこにも行かせないように、いつでも、いつまでも一緒にいられるように」
 君らしくない言葉。僕を、殺す? 君が? 彼女にそうしたみたいに?
 オーケイ。出来るモノならやってみせてくれ。僕もそうしてもらいたい気分なんだ。
 僕は小さく肯いて、そして、さらに問うた。
「じゃあ、好きって言ったら?」
「もちろん嬉しいよ。嬉しくて嬉しくて嬉しくて、嬉しすぎて、たぶん、わたしはお兄ちゃんに殺されたいなんて考えると思う。殺されて――食べられちゃいたい。わたしが誰にも盗られないように、どこにも行けないように、いつでも、いつまでも一緒にいられるように」
「……ずいぶんと極端だね」
 正直な感想だ。元々君は極論に走るきらいのある女の子だったけれど、ここまで言えてしまうほど常識を知らない人間じゃあなかった。それが、どうして――。
 そんな僕の疑問は、次の瞬間、君が、今まで見た覚えのないくらいに真剣な顔つきで、こんな台詞を吐いたことで、氷解した。
「そうさせたのは誰? お兄ちゃんでしょ? お兄ちゃんが、あんなののこと、好きになんてなるから」
 ああ、やっぱり。
 そうじゃないかとは思っていた。きっとそうだろうと考えていた。そうに違いないと確信していた。君が、彼女を殺したって。そう信じていた。でも、もしかしたらそうじゃないかもしれないって。神様が救済の手を差し伸べてくださるのを期待するみたいに、僕は、君が無実であることを願ってもいたんだ。
 だけど、この瞬間に、その願いは踏みにじられた。他ならぬ君自身によって。
 不思議と怒りは無い。悲しみも、恐怖も、不安さえもない。ただ、どうしようもない、という諦めだけが僕を包んでいて、その感情だけが、かろうじて僕を守ってくれていて。
 ……ただ、もう、疲れた。
 それ以外に思える事なんて無くて。
 だから、
「ねえ、答えて。お兄ちゃん、わたしのこと、好き?」
 そんな君の問いかけにも、僕は何も言えず、君はそんな僕の肩を強く掴んだまま、顔をくしゃくしゃに歪めて、「答えて」という言葉を繰り返し繰り返し唱えながら、ぽろぽろと、大粒の涙を零した。

 その内の一滴が、僕の顔に落ちた。
 ほんのりの暖かい君の涙は、僕の頬を伝って唇に届き、そして、口の中へと流れ落ちた。
 これはたぶん、僕の錯覚なのだろうけれど。
 この時、僕は、君の涙を飲み込みながら――馬鹿げたことに、甘いな、なんて感想を抱いた。




 たぶんこの瞬間、僕の中でなにかが決定したんだと思う。
 まるで魔女の媚薬に冒されるみたいに、僕は、何かを。


(10)


 なにがあろうと、なにを思おうと、どれだけ抗おうと――絶対に、朝は来る。
 彼は言った。
 醒めない夢は無いんですよ、と。
 あの日、黒板を背にして、僕を見下ろすようにしながら言った。
 醒めない夢はない。明けない夜はない。幕を引かない舞台はない。
 どれだけ心地よい夢も、どんなに辛い夢も、目覚めと共に消えてゆかなければならない。
 あらゆる人間は、未来を目指して進まなければならない。過去に、夢にしがみついて、その安逸のなかで膝を抱えて眠り続けることは、罪以外の何者でもない。
 人は、変わらなければならない。
 そんなことを言った。

 僕は磨りガラスが格子状にはめ込まれたドアを開けながら、眠気にまみれた声で言う。
「おはよ――」
「おはよ、お兄ちゃん」
 僕よりも早く目を覚ましていた君が、今のテーブルの上に、トーストの乗った皿を置きながら、やけに元気な声で応えた。
「おはようって時間でもないけどね」
 苦笑しながら時計を見やれば、ただいまの時刻は午前11時50分。ぎりぎり午前中に目を覚ますことが出来ただけ、休日を無駄に過ごさないで済んだわけだ。
「お兄ちゃん、コーヒーが良い? それとも紅茶?」
「んー、と。じゃあ、コーヒーで」
「オッケ。ちょっと待っててね」
 そんな、いつも通りの――いや、いつもより少しだけ明るい会話。自分でそう振る舞っていてなんだけど、二人とも明らかに無理をしていると思う。これから訪れる審判の時(と呼ぶのは、あまりにも大袈裟だろうか)に、明らかに怯えている。それでも、僕らは演じなくてはならないんだ、と。なんの根拠も確証もないけれど、強くそう思った。
 やがて君が湯気の立つカップを二つ持って今に戻ってきて。
 そして、朝食と呼ぶには少しばかり遅い食事が始まった。
 出来るだけ美味しそうな顔をして食べることに努めたけれど、うまくいったかどうかは分からない。


 食後。
 僕と君は向かい合って座っていた。
 さあ、選択の時だ、と。誰にともなく声をかける。
 選べ。いや、もう答えは決まっているんだろう?――だったら、それを声に出して言ってみせろ。
 オーケイ。まかせろ。自分でも信じられない話だけど、今の僕は、あらゆる意味合いにおいて、まったく気負いがない。なにもかもを放り投げたみたいな、そんな軽快な気分なんだ。確かに不安はある。怯えもあるし、もう逃げられないって諦念もある。だけど、ねえ。喜びも、悲しみも、どんな感情も、どうでも良いって無感情にはとても叶わないって、どこかの歌手も歌ってたじゃないか。今が多分、そういう状況なんだろう。きっと。
 ……そんな、どうにも馬鹿げた自分との対話を終えて。
 僕は君の目を、そして、その中に映る僕自身の姿を見つめて、言葉を紡ぎ始めた。
「こないだの質問の答えだけど」
「うん」
 神妙な面もちで君は肯く。
 同じように肯き返しながら、僕は断罪するように、あるいは宣誓するように言った。
「好きな人が、出来たんだ」
「……そう」
 君は顔をうつむけて、ぽつりと言う。
 そんな君に押し被せるみたいに、僕は同じ台詞を繰り返す。
「好・き・な・人が、でき、たんだ」
「もう、いい」
 君は小さく、そして強く、僕を制止する。
 俯いて自分の目の前のカップを見つめた姿勢のまま、自慢の黒髪を指先で弄びながら、
「それで、どうしたいの? ……お兄ちゃん」
 横目で僕を睨め上げて、そんなことを聞いてきた。
「僕は、君を――」
「私を、殺す?」

 例えば、ここでもし「殺す」と応えていたら――多分、違う場所に行けたのだろう。
 だけど、僕はそうはしなかった。
 僕は――ここにいることを選んだ。

「なんで、殺さなきゃならないんだ?」
 逆にそう問い返してみせた僕の顔を、はっと見上げながら、君はどこか困惑した表情で言った。その口調にはどこか力がこもっていて、正直、痛々しくさえある。
「だって、そうでしょう? お兄ちゃんの好きな人っていうのは――」
「うん。たぶん君が想像してる通りの人だ」
「ならやっぱり殺さなきゃ。だって、あの人を殺」
 君の言葉を遮るように、僕は、少し強い口調で言った。
「君が何を言おうとしてるのかは分からないけどね。その前に、ひとつだけ思い出して欲しいことがあるんだ」
「……なに?」
「君の母親を殺したのは、僕だ。君と、僕が、そう決めた。そうだったね?」
「…………だから?」
「別に。ただ、それでも僕は生きて、こうして君と話をしてるんだなって。そう思っただけ」
 僕の言葉に、君は黙り込んで視線を逸らした。
 それでも僕は、君を見つめたまま、さらに言葉を継ぐ。
「僕はなにも変えたくない。疲れるのも辛いのも悲しいのも、もう嫌なんだ。母さんの時にそう思って、今回の件で確信したよ。僕は、どこにも行けないわけじゃない。もうどこにも行きたくないだけなんだ」
 僕の居場所はここで良い。君の瞳の中にだけいられればそれで良い。君が僕の瞳の中にのみ存在することを選んだように。そして、僕の瞳に君以外の誰かが映ることを拒んだように。君が僕を独占したように――僕も、君を閉じこめてしまおうと思う。ここに。
「好きな人が出来たんだ。それは本当のこと。もうその人に会うことは出来ないけれど、気持ちはやっぱり変わらない。だけど、それとは別の話として、僕は君から離れたくないとも思ってる。……ううん、この言い方は正確じゃないな。僕は、君を離したくないんだ。何故って、『ここ』以外に僕の居場所なんて無いんだから。ここにいれば何も変わらない。ここにいれば、もうこれ以上嫌な目に遭うこともない。ここは……とても静かだ。だから、僕はここにいたい」
 君は上目遣いに僕を見返して、怯えの混じった声で訊く。
「わたしが、ここにいたいと思うのと、同じみたいに?」
「そう、同じみたいに」
「わたしが、お兄ちゃんを離したくないって思うのと、同じみたいに?」
「そう、同じみたいに」
「わたしが……お兄ちゃんを好きなのと、同じみたいに?」
「……そう、同じみたいに」
 一瞬のためらいを、君は見逃さなかった。
 君はほんの少しだけ明るくなった口調で、僕を指さしながら早口に言った。
 その拍子に、目の前に置いてあったカップが少し揺れたけれど、そんなことには気づかないみたいに。
「あ、今嘘吐いた。さっき『好きな人が出来た』って言ったくせに。わたしのこと、全然好きじゃないくせに」
「分かっちゃうんだな、やっぱり」
 僕は苦笑する。
 君は胸を張る。
「分かるよ。お兄ちゃんのことならなんだって分かる」
「君も今、嘘吐いたな。僕のことなんて、これっぽっちも分かってないくせに」
「……分かる?」
「いや、分からない」
 そう言ってかぶりを振る僕に、君は、ふわりと微笑みかけた。
 そして、頬の辺りまで流れ落ちてきた黒髪を、ゆっくりと掻き上げながら、言葉を紡ぐ。
「……あは。そうだね。それが正解。他人の気持ちなんて絶対に分からない。だから分かったふりをして、分かったような気になって、そうやって自分に都合が良いように世界を書き換える――」
 そう。君の言うとおりだと僕も思う。結局のところ、誰も、なにも分かっちゃいない。世界がどんな形かなんて、誰も知りゃしない。そんなものは適当に想像して、適当に言いだしたヤツが適当に支持を受けて、その結果をみんなが適当に信じてるに過ぎない。みんな、誰のことも見てないんだ。自分のことしか知らないし、分からないから。……いや、これも僕の適当な想像にすぎないのだけれど。
「そうだね……うん、でもまあ、分かった。分かったよ」
「なにが?」
「さっきの話。お兄ちゃんに好きな人が出来たっていうアレ。わたしね、お兄ちゃんがそう思うなら、それで良い。お兄ちゃんがあんなのの事を好きだっていうのなら、わたしは別に止めはしない。怒りもしないし泣きもしない。大丈夫。気になんてしないから。だって、そんなのって全然関係無いんだもの」
「……そうかな」
「うん、そうだよ。さっきも言ったよね? 昔から――ずっとずっと前から、わたし、言い続けてるよね? 他人の気持ちなんて、絶対に分からないって。何が本当で何が嘘かなんて、自分自身以外には分からないって。だからね? わたしは勝手に決めつけることにした。自分好みのお兄ちゃんを、お兄ちゃんの気持ちを想像して……ううん、創造して、勝手に分かったつもりになって、勝手に理解し合ってるつもりになって、勝手に愛し合ってるふりをすることにした。……ねえ、それで良いよね? ここでわたしたちが、今までと変わらずにそこそこ幸せでそこそこ楽しくてそこそこ安らかな生活を送るには――これが、一番いい方法なんだよね? 無理に分かろうとして、無理に伝えようとして、誤解しあって、過信しあって、その結果傷つけ合うよりは、こうやってお互いの幻想をお互いの瞳の中で、合わせ鏡みたいに増幅し合って、夢見てるみたいに生きていく方が良いんだよね? お兄ちゃんも、そうしようって決めたんだよね?」
「……うん、そうだ」
 僕は頷いた。そう、それで良い。それ以外の道を選ぶには――僕はもう、君に依存しすぎている。取り返しがつかないくらい、君を離したくないと思っている。それを愛だなんて呼べるほど、僕は善意に満ちた人間じゃないけれど――だけど、それが愛で無いと言えるほど、君のことを憎み切れていないこともまた、事実だ。
「じゃあお兄ちゃん、お願いだから、わたしのこと、好きって言って? 嘘でもなんでも良いから好きって言って? 優しくしてくれて、抱きしめてくれて、一緒に寝てくれて、笑い合って、じゃれ合って、たまに喧嘩して――ねえ、そんな演技をしてよ。ふたりで、幸せなふりをして生きていこう? 愛し合ってるふりをしよう? わたしが、お兄ちゃんの望みを叶えてあげる。ここから出ないで、わたしを縛り続けて、わたしに縛られ続けて、それでもアイツのことを好きであり続けて――そんな風に過ごさせてあげる。だから、わたしの望みも叶えてよ? わたしのことを愛してくれてるって、そんな風に信じさせてよ。完璧に……演じてよ」
 祈るように君は言う。
 僕には君の気持ちなんて分からないから、そんな風に、縋り付くみたいに僕を見る君が、本当に僕を必要としているのかなんて、信じることも感じることも出来ないけれど――それでも良いと、僕は思っている。心から。だから、言葉に力を込める。そして、応える。
「……分かった。誓うよ。僕は、君を愛そうと思う。君が死ぬ瞬間まで、僕は君を騙し続けようと思う。絶対に見破らせない。保証する。僕の眼にはもう、君しか映らない。だけど……だけどその代わり、僕はここで、ただただ怠惰に彼女のことだけを想い続ける。君には気づかせないけれど、僕が本当の意味で君を見ることは、もう無い。それで良いんだよな?」
「うん、良いよ。お兄ちゃんが協力してくれるなら、わたしもきっと上手くやれると思う」
「……本当に良いんだな? もしかしたら、もう少し頑張ってみせたら、演技でも嘘でもなく、心の底から君を好きになるような、そんなこともあるかもしれないんだよ?」
「ううん、良いんだよ、もう。前から言ってるじゃない。真実より正しい嘘もあるって。好きよりも愛おしい嫌いもあるって。わたしはそう思ってるんだから――だから、もう良いんだ。嘘でもお兄ちゃんに好きって言ってもらえるなら、それだけで、良い」
 だってお兄ちゃんのこと、好きだもん。
 そう言って、君は、昔見せてくれたみたいな明るい顔で笑った。
 僕は頷いて、そして答えた。
「OK、分かった。お互いに最高の芝居を目指そう。お互いを――いや、世界を騙しきってみせようじゃないか」


(12)

 契約成立。閉じた世界が生まれた。
 僕らはそれを、楽園と名付けた。
 ウェルカムトゥマイバビロン。ようこそ僕の理想郷へ。 

 このままココで死を迎えよう。このまま二人で、あるいは独りで土に還ろう。
 生きて、呼吸して、食餌を取って、排泄して、たまに笑ってたまに泣いて、そんな風に過ごしてみせながら――それでも、嘘に満ちた本当の心だけは、ここに置いていこう。僕らは、この閉じた楽園から一歩も出ないで、ただただお互いを騙し合いながら、最期の最後まで目を逸らしていよう。
 そう。帰りついた理想郷で、僕らは怠惰に腐っていく。
 それが幸せじゃないなんて、誰にも言わせはしない。神様にだって。

 これこそが、僕らの望んだ世界のカタチなのだから。





前へ 目次 次へ