あなたたちに似ようとしたのは、人恋しくてたまらなかったから


#君の話


(1)

 醒めない夢は無いんですよ、と。
 黒板を背にして、僕を見下ろすようにしながら彼は言った。
 醒めない夢はない。明けない夜はない。幕を引かない舞台はない。
 どれだけ心地よい夢も、どんなに辛い夢も、目覚めと共に消えてゆかなければならない。
 あらゆる人間は、未来を目指して進まなければならない。過去に、夢にしがみついて、その安逸のなかで膝を抱えて眠り続けることは、罪以外の何者でもない。
 人は、変わらなければならない。
 だから――。

「妹さんを、解放してあげてください」



(2)

 放課後の教室。誰かが閉め忘れた窓から、夕暮れの光と共に梅雨時に特有の湿っぽい風が入り込んでくる。その風はカーテンの端を微かに揺らし、花瓶に生けられた名前も知らない花から花弁を一片揺り落とし、そして僕の眼前、まるで教師か裁判官みたいに、教壇ごしにこちらを見下ろす彼の前髪を揺らした。
 僕には彼の気持ちなんて分からないから。だから、彼が何を言わんとしているのかも、ぼんやりとした推論という形でしか想像出来ない。その想像はどうにも陳腐で、滑稽で、そして哀れで、だけどそんな風に思ってしまうこと事態があまりにも傲慢で、例えばそれは、精神に障害を負った人間が奇矯な行動を取る様を見たときの心境にも似ていて。
 やりきれない。この気持ちを言葉にするために必要とされる労力で、バベルの塔が築けるんじゃないかと思えるくらいに、やりきれない。
 だから僕は逃げることを選んだ。
「解放?」
 結論を出さず、応えはしても答えはせず、ただただ空っぽな声で退路を作る。
 意味の無い問い返し。行き場所のない言葉。間を置くためだけに発せられたそれに、彼は律儀にも頷いてみせた。そして、続ける。
「妹さんに自由を返してあげてください。常に貴方とともにある添え物としてではなくて、ひとつの独立した人格としての彼女に戻してあげてください」
 まるで詩歌を朗読しているみたいな口調で一息に言い切ると、彼は人差し指で眼鏡のフレームを押し上げた。傍目にはズレているようには見えなかったから、多分、なんらかの形で間を保たせたかったんだろう。
「……言ってる意味がよく分からない。もっと、こう、具体的にならないかな」
 そう僕が言うと、彼は小さくため息をついて目を瞑り、そして、まるで懺悔でもしているみたいな口調で(だけどその声からはどこか優越感みたいなものがにじみ出している)、あまりにも具体的な一言を口にした。

「僕は貴方の妹さんと寝ました」

 ……こういうとき、どういう顔をすれば良いのか分からない。悲しみに眉を寄せれば良いのだろうか。怒りに目をつり上げれば良いのだろうか。あるいは全てを赦し(許す、なんて発想をする人間を、僕はこれっぽっちも信用していないけれど)大らかな笑みで包み込んであげれば良いのだろうか。
 ほんの少しの時間、それらの意味について考えてみたけれど、結局答えは出なかった。とりあえずは苦笑して場を濁してみようともしたけれど、どうにも上手く笑えなかった。だから、ただ一言。問題を先送りするためだけに、意味のない言葉を発する。
「そう」
「……それだけですか?」
 責めるように彼は言う。僕には彼の気持ちなんて分からないから、彼が一体僕にどういう答えを期待していたのかなんてことも、もちろん分かるはずがない。

……ああ、そういえば。
こういう場合にはどう振る舞えば良いのか――以前、君に教えて貰っていたような気がする。



(3)

 夕食後のお茶の時間。居間のソファに二人並んで腰掛けて、ぼんやりとラジオを聴いていた。もちろんウチにだってテレビくらいはあるけれど、たまには映像を伴わない、音だけの世界に浸りたい日もある――というのは、君の弁だ。正直僕にはそういう考え方ってよく分からなかったけれど、でもまあ、君がそうしたいというのなら、特に反対する理由もない。
 ラジオのなかでは、名前も聞いたことのないようなDJが、まるで搾りたての牛乳みたいに粘っこい口調でリスナーからの手紙を読み上げていた。まず最初のお便り。神奈川県、ラジオネームは――。何通かの手紙に対して、時には真剣に(あるいは真剣さを繕って)、時にはユーモアを交えて(笑いどころがよく分からない)、時には無感情に(たぶん疲れてきたんだろう)言葉を重ねてゆく男性の様にも飽きてきた頃、
「お兄ちゃん」
 自分で淹れた珈琲に、角砂糖を三つばかり放り込みながら、君はぽつりと呟いた。
「なに?」
 問い返す僕の前には、君のそれと同じように、湯気をくゆらすマグカップが置かれている。少し濃いめに淹れた珈琲。砂糖は入れないで、代わりにミルクをたっぷりと。現状で望みうる限りで、もっとも僕の好みに合っていると思われる形で作られた飲み物。悔しいけれど、君が淹れてくれる珈琲はすごく美味しい。君のことはいくらでも憎める。だけどこの珈琲を憎むことは出来ない。珈琲に罪はない。
「美味しい、かな」
「……うん。美味しい」
 僕が答えると、君は眩しそうに目を細めて笑って、
「そう」
 小さく頷いた。そしてまた、沈黙。
 君がスプーンを回すたびに、カップの中からかちゃかちゃと硬質な音が響く。
 僕には君の気持ちなんて分からないから、こうやってお互いが黙りこくっている間、君が何を考えているのかも、想像することしか出来ない。マックス・ウェーバーが語るところの「価値からの自由」という考え方について考察しているのかもしれない。自分の左右の胸の大きさが、それぞれほんの少しずつ違うことについて悩んでいるのかもしれない。珈琲に入れる砂糖の種類について考えているのかもしれない。あるいは珈琲に塩を入れてみようと企んでいるのかもしれない。多分そのどれもが正解で、そして間違いなのだ。観察者のいない世界は確定されることがない。もしも今君が何を考えているのかを知りたいのなら、声をかけて、質問して、そして答えをもらうしか方法はない。それにしたって、君が本当のことを言ってくれるとは限らないし、もしかしたら、言葉では表現しきれないようなことを考えているかもしれない。つまりは――つまりはこういうことだ。僕には君の気持ちなんて、絶対に分からない。分からないことについては、考えない方が良い。そういうのって、すごく疲れるから。
 僕は小さくかぶりを振って、珈琲を一口啜った。そんな僕の顔を見つめて、いつもみたいに僕の瞳の中に映る君自身の姿を探してから、君は口を開いた。
「悪い癖、だよね」
「……なにが?」
「そうやって、なにかを訊ねられるまで自分からは話しかけてこないこと」
 なんと答えて良いのか分からなくて、僕は君から目を逸らした。特に意味もなくカップを持ち上げてみるけれど、そんな風にしたって、君が許してくれるわけもない。
「こっち、向いて」
 ……もちろん僕には、この命令に逆らうという選択肢だって存在する。そうしたってなんの不都合もない。僕には君の気持ちなんて分からないから、そんな振る舞いをした僕に君がどう対応するのか、なんてことも想像すら出来ないけれど、ともかく、それが致命的な間違いになることはあり得ないと思う。だけど。それでもやっぱり、僕は君の言葉に従ってしまう。理由は自分自身でも分からないけれど……たぶん、そういう風に作られているんだろう。
 視線を君に戻す。君はそんな僕の様子に、ほんの少しだけ満足げな顔をしてみせてから、いつもみたいに、僕の瞳の中に映る君自身に向かって話しかけ始めた。
「言葉にしないと伝わらないよ。言わなくても分かる、なんて嘘なんだから」
「嘘?」
「うん。あるいは勘違い。他人のことなんて理解できない。他人の気持ちなんて分からない。わたしに知覚出来るのはわたしの脳内のことだけで、それ以上の何事を知ることも出来ない。それはお兄ちゃんだって同じでしょ? お兄ちゃんにわたしを理解する事は出来ない」
 僕は黙って首を縦に振った。君もまた、小さく何度か肯いて、続ける。
「わたしたちは分かり合えない。そういう風に作られてるんだから。わたしたちの心の間には、絶対に渡れない川が流れてる。絶対に、だよ。断言してあげる。わたしはお兄ちゃんに触れられない。わたしの心がお兄ちゃんのそれと触れ合うことはない」
 でもね、と君は言った。言って、珈琲をまた一口啜った。僕も同じようにカップを手に取り、君がまた話し始めるのを静かに待つ。君の事は憎いけれど、君がこうやって話をするのを聴くことは、そんなに嫌いにはなれない。言葉に罪はない。珈琲と同じように。
 かたり、と軽く音を立てて、君はカップをテーブルに置いた。そしてもう一度、でもね、と言った。
「でもね、その川を渡ることは出来ないけど、何かを伝えることは出来るんだ。手を振る。声を張り上げる。手紙を流す。やり方は色々あると思う。直接触れることが、分かり合うことが出来なくても、距離を狭めることは出来るんじゃないかな。……うん、分かったふりをすることくらいなら出来るんだよ。わたしはそう信じてる。信じることを選んだ」
 だから、お兄ちゃん、と。微かに媚びを含んだ声で、君は囁いて。
「手を振って欲しいんだ。声を出して、手紙を書いて欲しいんだ。嘘でも意地悪でもなんでも良いから、お兄ちゃんの気持ちを言葉にして、少しでもわたしに伝えようとして欲しいんだ」
「……でも、言葉にしたって伝わらないこともある」
 たとえば、僕の憎しみ。もしも今この場で、僕は君が憎い、とわめき散らしたとしても、そんなのってなんの意味もない。僕の中にある君への気持ちはそんなことくらいじゃ伝えきれないし、第一、僕自身にも、自分が君をどのくらい憎んでいるのかなんて把握しきれていないんだから。自分にさえ分からないことが、他人に伝わるとは思えない。
「良いんだよ、別に。100パーセントの純度でお兄ちゃんを伝えて欲しい、なんて思ってないんだから。あらゆる感情は、知識は、言葉という媒体に乗せた途端に劣化を始める。そんなのは他人に気持ちを伝えようとしたことがある人間なら、誰だって知ってるよ」

 ”何も言わないで なんて嘘ばかり
  言葉にしなけりゃ 伝えることさえ
  言葉にしてみたって すれ違うばかりで
  わかりあうことなんて いつになれば?”

 少し前に流行ったバンドのナンバーを、君は口ずさんでみせた。
 その顔に微笑みを乗せて、母親譲りのつり上がり気味の瞳を、優しく細めて。
 そして、言う。
「だから、お兄ちゃんが言葉に出来ないこと、したくないことは、わたしが補う。わたしが勝手に想像して、勝手に分かったふりをする。それで良いんじゃないかな? どうせ他人の気持ちなんて分かりっこないんだし、分かった気になったとしても、それって絶対誤解なんだから――わたしの中に、わたし好みのお兄ちゃんを作り上げたって、誰も文句は言わないんじゃないかな?」
 一息にそこまで言って、君は小さく息を吐いた。その拍子に、耳の後ろに流していた髪が、一筋流れて口元まで落ちる。僕は手を伸ばしてそれを直してあげながら、そのまま君の頬に手を当てて、自分でも驚いてしまうくらいに、穏やかな声で言葉を紡いだ。
「時々、だけど」
 頬に触れた手のひらから、君の体温が伝わってくる。僕の体温も同じようにして君に伝わっているとしたら、これもある意味では理解し合っていると呼べるのかも知れない。残念ながら、僕にはやっぱり君の気持ちなんて分からないけれど。
 ともあれ、僕は言葉を接ぐ。
「時々だけどね。君ってすごく良い奴なんじゃないかって、勘違いしてしまうことがある」
 君はくすぐったそうに肩を震わせながら、
「勘違いだね。酷い勘違い」
 どことなく乾いた声色で、そう応えた。
 僕は君の顔から手を離して、みたびマグカップを手に取った。もうほとんど残っていない中身を一口で飲み干して、そのままカップを手のひらで弄ぶ。
「勘違いに、わかったふり」
 なんとなく、確認するみたいに呟いてみた。君は自分のカップを手にソファから腰を上げて、そして母親が子供にするのと同じように、僕の手からもそっとカップを取り上げた。
「自分で洗うよ」
 と、僕が言うと、君は僅かに苦笑した。首を横に振って、言う。
「ひとつ洗うのもふたつ洗うのも一緒だよ。むしろ別々に洗う方が水道代の無駄」
 まったくもって正論だった。反論の余地もない。僕のちっぽけな矜持を除いては。
 それより、と君は言う。
「……それより、お兄ちゃん。今言ったこと、覚えておいてね。他人の気持ちなんて分かろうとしなくて良いから、そんな無駄な努力なんてしなくて良いから――その代わり、分かったフリをしてみるって。自分の中に、相手を投影してみるって。それだけ、覚えておいてね」
 そんな言葉を置き去りにして、君は台所へと歩み去った。
 ひとり取り残された僕に、ラジオの向こうからDJが語りかける。

 ”どうにかしてる”

 ……同感だ。



(4)

「わかったふり、ね」
「……なんですか?」
 訝しげに問う彼に、僕は苦笑しながら(今度は上手く笑えた)かぶりをふってみせる。
「いや、ただの独り言」
 納得はいかないけれど、今は捨て置こう。そんな感じの表情で、彼は肯く。
 そして、もう一度先ほどの言葉を繰り返した。
「僕は、彼女と、寝ました」
 一言一言を区切って、強く発音する。だけどそんな風に言われたって、やっぱり反応に困ることに代わりはない。彼は僕に何を求めているんだろうか。どれだけ考えたって分かりそうもないけれど――まあ、良い。彼女の助言に従って、ここは分かったふりでやり過ごすことにしよう。
「君は酷い奴だな」
 思ってもいないような台詞を吐いてみた。あまり自信はないけれど、なんとなく、彼は僕が否定的な言葉を投げることを望んでいるような気がしたから。
「酷い、ですって?」
 彼はさも心外だといった様子で、眉を片方だけ上げてみせた(私見だけど、こういうのは高校生がやって良い仕草じゃないと思う)。そして僕を睨み付けて、強い口調で言った。
「彼女はね、僕と、その、するとき――『他人とこういうことをするのは初めて』だって、そう言ったんですよ? だけど――」
「だけど、処女じゃなかった」
 彼が言おうとしていた台詞を、先読みして口に出してみた。……なるほど、確かに分かったふりっていうのは効果的だ。利点は色々あるけれど、なにより会話のテンポが上がるところが良い。ただ、問題があるとすれば……どうも彼の機嫌を損ねてしまったらしいってことだろうか。
「……アンタは」
 彼は怒りを無理に押し殺した、軋るような声で言った。
「アンタは、最低だ」
 言われるまでもない。僕は――僕たちは、ろくな人間じゃない。そんなことはあの日、母さんが君を連れて死のうとした日から、君が僕を人殺しと呼んだ日から、僕が彼女に別れを告げた日から――そして、僕が、君を犯した日から、僕らふたりにとって唯一とも言える共通認識になっているのだから。
 僕は嘆息した。なんだかすごく疲れていた。もうそろそろ終わりにしたい。早く家に帰って、夕飯を食べて、君が淹れてくれた珈琲を飲んで、そして布団をかぶって眠ってしまいたい。だから僕は、この会話をうち切ろうと、少しばかりの決意をこめて口を開いた。
「ねえ――」

「『奴隷と主人の逆転』って知ってる? 精神病理学の基礎に属する考え方なんだけど」

 教室の扉の方から、聞き慣れた(それが自分の声に思えてしまうくらいに聞き慣れた)声がした。はっとした様子でそちらに顔を向ける彼を追うように、僕も声が発せられた方向を見る。
 果たせるかな。ふたつある扉の前の側、黒板横の扉のところに君が立っていた。残念ながら夕日を背負って、なんて劇的な登場の仕方ではなかったけれど、それでも及第点をあげられるくらいには見栄えよく、君が現れていた。
「なん、で……」
 掠れた声で彼が言う。嘲るように君は嗤う。
「兄さんを迎えにきたら、どこかで見た人と話をしてるみたいだったから。だからまあ、話が終わるまで待ってようと思ってたんだけどね――」
 そこまで言って、君はちらりと視線をこちらに送ってきた。……なんだろう? 良くできた妹だとでも誉めて欲しいんだろうか。僕はそれほど優しくないと自認しているのだけど。ところで人前でなら『兄さん』と呼べるんだったら、ふたりきりのときにも是非そうしてもらいたいものだ。正直、お互いの年齢を鑑みて『お兄ちゃん』という呼び方はいかにも似合わないと思うから。
「――なんだかね、いい加減待ちくたびれちゃって」
 と、君は言い、
「悪いね」
 これっぽっちも悪いと思っていない声色で、僕は応えた。
 そんな僕に、君は何度か肯いてみせた。
 そして、そこで初めて彼の方に顔を向けて、もう一度同じ問いを繰り返した。

「『奴隷と主人の逆転』、知ってる?」



(5)

「……なんだい、それ?」
 読みかけの小説(この小説の作者によれば、なんと織田信長は両性具有者だったらしい!)から顔を上げて問いかけた。
 君はお盆に乗せて運んできたティーカップを、自分の前と僕の前とにそれぞれ置きながら、からかうみたいに唇の端を上げて、問い返す。
「なんだと思う?」
 分からないから聞いてるんだ、なんて言葉を飲み込んで、僕は目の前に置かれたカップを手に取る。今日は紅茶の日だ。茶葉の種類なんて僕には分からないけれど、用意するのに時間がかかったから、少なくともティーパックの安物でお茶を濁した(この表現は意外と諧謔を解しているとは思わないか?)わけじゃあないらしい。口をつける前に覗き込んでみれば、紅く澄んだ水面に、橙色のものが浮かんでいた。刻んだオレンジの皮だ。……やっぱり悔しい。自分の好みをここまで理解されてしまっているという事実が、たまらなく悔しい。だけど、紅茶にも、珈琲にも、言葉にも罪なんてないから――あるいは君にも罪なんて無いのかもしれない。だけどそれを認めるには、僕はあまりにも俗っぽすぎる――僕は黙したままで、紅茶を啜る。
「……美味しい」
 君が訊ねてくるまえに、そう言っておいた。僕だって少しくらいは成長するんだから。
 そんな僕の子供っぽさを見透かすみたいに、君は優しく微笑んだ。
「良かった」
 呟いて、君も自分のカップを手に取った。ほんの少しだけ、舌を湿らす程度に啜ってから、君はカップを置いて、さっきの問いの答えを出した。
「つまりね、普通に考えたら奴隷っていうのは、主人に従う弱者でしょう? 主人の命令に従って労働して、主人の機嫌を損ねないように追従して、主人がいなくなったら生活出来なくなって――」
「うん」
 首肯する僕に肯き返して、君は楽しげな口調で続ける。
「でも、それは実は逆なんじゃないかって考えた人がいるの。奴隷がいないと主人は生活できない。どれだけ広い農地を持ってても、実際にそこで働くのは奴隷だもんね。強者であるはずの主人が、弱者でしかない奴隷の存在なくしては強者たり得ないという逆転。弱者は強者に従うけれど、強者もまた、弱者に依存している。つまりはそういうこと」
 だいぶ端折ったけどね、と、君は悪戯っぽく笑ってみせた。
「あと、こういうのもあるよ。『サディストはマゾヒストに常に依存する』ってヤツ。これも強者が弱者に依存してる一例だよね。打たれる者がいなければ、どんな鞭も意味を為さない。綺麗は汚い、汚いは綺麗――あ、これは関係ないけど」
「それで――」
 楽しげに語られる声が聞こえる間、じっと見つめていた紅茶の水面から視線を上げて、君に顔を向けながら僕は訊いた。
「それで結局、君はなにが言いたいんだ?」
 君もまた、僕の目を見つめ返しながら、無表情にも見える顔で、先ほどまでとはうって変わった重い声音で、
「お兄ちゃんと、わたしについて」
 そんな、思わせぶりな台詞を吐いてみせた。
「わたしはいつもお兄ちゃんに命令してるよね。こっちを向いて。目を逸らさないで。話を聞いて。一緒に帰って。髪を梳かして。眠るまで側にいて――」
「……改めて訊くと、まるでお姫様みたいだ」
 僕がそう言うと、君は苦笑しながら「だよね」と言って肯いた。
「それってつまり、さっきの例えで言えば、わたしが強者でお兄ちゃんが弱者、ってことだよね。お兄ちゃんは――お兄ちゃんは、わたしが飽きるまでどこにも行けない。わたしが、『お兄ちゃんがお母さんを殺した』っていう嘘よりも、『お母さんは自殺した』っていう真実の方が大事だって思えるようになるまで、どこにも行っちゃ駄目。そういうことになってるんだから」
「いつそうなったのかは知らないけど」
 僕の軽口をさらりと無視して、君はカップを取り、紅茶を啜り、思い出したみたいに砂糖を一匙だけ追加して、君がそうしている間も、僕は阿呆みたいに君の顔を見つめていて。そんなごく短い沈黙を経た後に、君はまた、どこか淡々とした声で語り始めた。
「でも、それは逆転しているのかも知れないって、最近思い始めたんだ。わたしは確かにお兄ちゃんを縛っているけれど、じゃあもしお兄ちゃんがいなくなったら、わたしはこの嘘を、どこでどう処分すればいいのかなって、そんなことを考えるようになったの。この嘘は、お兄ちゃんとわたしの間でしか通用しない。世間ではお母さんは自殺したってことになってるし――当たり前だよね、それが真実なんだから――、わたし以外の誰もが、そういう風に理解してる。今は『お兄ちゃんがお母さんを殺した』って言っても、その嘘はお兄ちゃんが受け止めてくれてる。その嘘に従って、わたしに依存されてくれてる。だけどもし、お兄ちゃんがいなくなったら? あるいはお兄ちゃんがこの嘘に飽きたら? わたしにとって真実よりも大事なこの嘘は、いったいどこに行けば良いのかな――?」
 まるで縋り付くみたいな瞳で、僕を見つめてくる君。
 そんな君に僕が言えることなんて何もなくて(だってそうだろう? 僕は君を憎んでいるんだから)、結局僕は黙りこくったまま、君の顔から目を逸らして。
「ねえ、こっちを見てよ」
 そして、いつもみたいにそう叱責されるくらいしか、出来ることは無かった。
 君は僕の顔に手を伸ばして、頬に手のひらを押し当てて、両方の耳の後ろを、人差し指で優しく撫でながら、すごく悲しそうに笑って、言った。

「わたしは――わたしは、お兄ちゃんに依存してる。人殺しの、最低のお兄ちゃんに」

 ……こんなとき、どんな顔をしたら良いのか、神様、どうか教えてください。
 真理も愛も必要ないし、そんなものが実在するなんて最初から信じちゃいないけれど、だけど、神様、僕が憎んでいるはずの君が、僕を憎んでいるはずの君が、こんな顔をすることに、何故だか僕は耐えられそうにないから。だから神様、今のところ他に要り用なものは無いので、とりあえず今は僕を助けてください。君にかけるための言葉をください。

 もちろん、そんなもの、あるわけがなかった。
 エリ・エリ・レマ・サバクタ二。主よ、主よ、なんぞ我を見捨てたもうや。



(6)

 僕が好きな画家に、鈴鳴唖好という人物がいる。
 特別構図が上手いわけでもなく、色使いが奇抜なわけでもなく、感動も笑いもなく、描かれた光景に魅力など欠片も感じられず、悪夢じみた遅筆で、そのうえ描き残しの余白が、使用された画布が気の毒になってしまうくらいに多いという、なんでこんな人間が画家として存在していられたのだろうかと首を傾げてしまうような、そんな絵描きだ。
 彼は昭和三十二年に生まれて平成二年に亡くなるまでの三十三年間の生涯で、十二作の人物画と三作の風景画、そして二十二作のシュールレアリスティックな何かを書き上げた。創作中にふと思い立って、別れた妻の住む家まで包丁を持って押し掛けて復縁を迫り、中学校に入学したばかりの息子が自分ではなく母親を庇うことに逆上して滅多刺しにし、そして自分自身も頸動脈を掻き切って死んでみたりしなければ、もう一作くらいは描き上げられたかもしれない。
 彼が晩年に描いた絵に、「泉」という色さえも乗せられていない未完成(本人は完成していると強弁したが)の作品がある。僕が鈴鳴唖好を好きだと感じている理由の九割九分九厘は、この作品の一種神懸かり的な出来映えに因るものだ。というかぶっちゃけた話、この作品が存在していなければ、鈴鳴唖好という画家には何の価値もなかった、とさえ思っている。それだけこの絵の出来は素晴らしく――そして、それ以外の作品の出来が悪い、ということだ。

 この「泉」という絵には、とある青年が深夜、自身の肛門を使った自慰行為を行っている情景が描かれている。作者自身がとある芸術誌のインタビューで語ったところによれば、この絵に描かれた人物には、自分自身を犯したい、そして自分自身に犯されたいという願望があり、いつもいつも自分自身との性交を脳裏に思い浮かべながら自らを慰めているのだという。やがて彼は射精し、気怠い気分に浸りながら後の始末を行う。丸めたティッシュペーパーをゴミ箱に投げ込みながら、彼は思う。こんなやり方では駄目だ、と。こんな中途半端な行為ではなく、もっと本質的に――自分自身のペニスを使用して、同じく自分自身の身体を蹂躙したい、と。彼は煙草をふかしながら、そのための方法を考える。最初に思い浮かんだのは、勃起時のペニスを型取りして、張り型を作る、というものだ。しかし彼はすぐにそのアイデアを廃棄する。どれだけ彼自身の形を精巧に写し取っていても、所詮張り型は道具だ。彼と彼を繋ぐのは彼自身のペニスであるべきで、その間には一切の介入があってはならないのだから。となるとクローン……いや、これも駄目だ。なるほど自分自身を複製すれば、彼と同じ身体を持つ人間と交わることが出来る。だけど、その人物は一個の独立した人格をもつ、彼とは別の人間であり、決して彼と同一の思考、同一の感情を持つ存在ではあり得ない。ならばどうする。どうすれば自分は自分とひとつになることが出来る。思い悩んだ彼は、ふと、最も単純な方法が残っていることに気づく。彼は台所から包丁を持ってくると、様々な感情の発露によって勃起している自分自身のペニスに押し当て、そのまま切断する。そして股間から大量の血液を垂れ流しながら、赤く染まったペニスを自らの肛門に押し当て――だけど、結局それを体内に受け入れることなく彼は意識を失い、失血死してしまう。死の直前、血まみれのペニスを握りしめたまま床に這い蹲り、彼は涙を流した。この方法も間違いだった、と。何故なら彼のペニスは自身の肉体から離れた時点で「彼のペニス」ではなくなり、「かつて彼のペニスだったもの」へと変貌していたからだ。人間は生きている限り、いつか死ぬ運命にある。肉体の死と精神の死は概して同時であることが多いのだけれど、しかし、彼のペニスは彼を残して先に死んでしまった。彼はそのことに嘆く。自分自身の「死」を象っているような肉塊を用いてまで行為に及ぼうとした自分自身を、そして、ひとつの身体しか持たなかった自分自身を嘆き、呪い、あざ笑い、しかし愛しながら彼は死んでいく。そんな光景を、鈴鳴は描いたのだそうだ。
 
 ……こうやって書いてみると、正直、こんなものを描いた鈴鳴唖好という画家と、そしてこんなものを「好き」と言ってしまう僕という人間の正気を疑いたくなる。こんなのってまともじゃない。これっぽっちも笑えない。泣けもしない。
 だけど、ただ。
 ただひとつだけ思うことがあるとすれば――この青年は自分自身とセックスすることが出来なくて、絶望して死んでいくけれど、僕の場合は、自分自身とセックス出来てしまうことに絶望しながら生きていかなければならないのだな、と。
 そういう、どうにもげんなりとしてしまう類の、重苦しい諦めくらいのものだろう。

 そうだ。あの夜、僕が君を犯したことに理由をつけるとするならば。
 あのとき、あんな顔をした君に、声をかけることが出来なかった自分があまりにも哀れで、そして、君の瞳の中に映り込んだ僕自身が、まるで君と同じような、本当に悲しそうな顔をしていたから。だから、そんな自分を慰めてあげたかった。つまりはそういうことだろう。
 そして、これは僕の身勝手な想像にすぎないのだけれど、君が僕に抱かれることを拒まなかった理由も――同じ事なのだと思う。僕は君の瞳の中の僕を抱き、君は僕の瞳の中の君に抱かれた。それだけだ、で済ましてしまえたら、僕も少しは幸せになれるのかもしれない。そんな自分に生まれ変われたら、すごく楽かもしれない。
 だけど、残念ながら僕は僕でしかなく、僕以外の何者でもない。僕以上の僕など存在しないし、僕以下の僕もまた在り得ない。どれだけ落ちぶれようと僕は僕を見捨てはしない。そのかわり、どれだけ変わることを、より優れた存在へと進むことを望もうとも、僕は僕であるということから逃れられない。僕は楽園に似ている。僕は牢獄に似ている。僕は――しかし、僕でしかない。
 君が君であるのと同じように。



(7)

「わたしは、兄さんに依存してる」
 僕と彼の間に立つようにして、あの夜とはまるで違う、はっきりとした強い口調で君は言った。僕ではなく、彼に向けて。
「自由が無いのはわたしじゃなくて、兄さん。常にわたしとともにある添え物になってるのは、兄さん。わたしは縛られてなんかいない。わたしが縛り付けてるの。勘違いしないで」
 一言一言を刃物で切りつけるみたいにぶつける君の様子に、彼は気の毒なくらいに狼狽していた。もうとっくに日は暮れて、教室の中もだいぶん涼しくなってきていっていうのに、この場にいる人間のなかで、彼ひとりだけが、額に汗を浮かせていた。たぶん冷や汗だ。
「だけど……だけど、だったら尚更だろ? 誰かに寄りかかったまま生きるなんて良くないよ。人間だったら自分の面倒は自分でみるべきなんだ。そうやって他人に依存してたら、成長なんて出来ない。もっと自分を信じなくちゃ駄目だ。強くなろうって思わなくちゃ駄目だ。自分自身を信じられなくて、他人に頼ってしまう弱さこそが、君の足元を掬うんだよ!」
 最後には叫びにも近い音量になった彼の言葉。
 それを受けても君は眉ひとつ動かさない。ただ、呆れたような声で、
「ご高説、どーも」
 そう呟いた。
 君のそんな気のない様子にもへこたれず(ここは素直に感嘆すべきところだろう)、彼は真摯に言葉を紡ぐ。内容は良く覚えていないけれど、彼がどこまでも真剣だったこと、彼ならば君を幸せに出来るということ、彼は君を自立した一人の人間として扱うこと、君が望むなら僕を赦しても良いということ(実に有り難い話だ)――そして、『愛』という単語が、七回ほど登場したことだけは、なんとなく頭に残った。……確かに、僕じゃあこうはいかない。君のためにこれだけの言葉を用意出来るほど、僕は優しい人間じゃない。そもそも、僕が君に向かって『愛』なんて台詞を吐くシーンを想像しただけで、なんだか死にたいような気分になってくる。
「愛、ね」
 彼の熱い台詞にただただ感心する僕を後目に、君はやっぱり白けた表情と口調で持って、彼の言葉の中で最も強く発音された一言を、繰り返してみせた。愛。それがこの世に存在していることを、もしも彼が僕の前で証明してくれるというのなら、それはそれですごく興味深いことだ。
「あのとき――初めてふたりでホテルに入ったとき、きみ、こう言ったんだよね。『君が本当はどんな人間なのか、僕は分かってる。だから何も言わなくて良い。君のことが好きだ。愛してる』……うん、だいぶ要約したけど、確かこんな感じだった」
「……ああ、そう言った。今でもその気持ちは変わってないつもりだよ」
 端正な顔に真剣さを滲ませた、男の僕からみても惚れ惚れするような態度で、彼は答えた。君はそんな彼に、さらに問いを重ねる。
「突然だけどね。わたしの嫌いな言葉って知ってる?」
「え?」
「わたしの嫌いな言葉、知ってる? 三つあるんだけど」
 本当に突然だ。突然すぎて、見ろ、彼が思わず僕に視線を投げてきてしまった。だけどそんな顔をされたって、僕にはどうすることも出来ない。だって、僕にだって君のことなんて分からないんだから。今この場で分かっていることと言えば、ただひとつ。こういう言い方をするときの君は、ひどく残酷な気分になっているだろうってことだけだ。……いや、もちろんこれも経験から来る想像に過ぎないのだけれど。
 君は彼を見つめたまま、無表情に言った」
「『分かってる』『何も言わないで』『愛してる』。この三つ」
 絶句する彼。何も出来ない僕。風が吹き、カーテンがはためき、花びらがまた一枚落ち、彼の前髪が、君のスカートの端が、そして僕の机の上の、鞄に入れ忘れたプリントが、微かに揺れた。その余韻が収まる様を見届けるようにして、間を置いた君は言葉を重ねる。
「……この三つの言葉がね、嫌いで嫌いで仕方ないんだ。きみにわたしの何が分かるって言うの? 何も言わないで、言葉にしないで、一体どうやって伝えるの? 言葉にしてみたって、愛してる? そんな風にしか言えないくせに。そんな何処の誰にでも当てはめられる言葉でしか、伝えられないくせに――そんなきみに、兄さんの、兄さんとわたしの何を責められるっていうの?」
「…………でも、でも僕はっ……」
「一度しか言わないから、よく聞いてね」
 何かを言いかけた彼を遮って、君は最後の言葉を紡ぐ。そう、たぶんこれで全部が終わる。全部が元に戻り、そして僕は、やっぱりどこにもいけないまま、ここで君の嘘に従い続けることになる。辛抱強いとか、妹想いとか、もちろん愛情とか。そういう日の当たる坂道みたいな、誰の目から見ても微笑ましく映るような感情ではなく、ただ単純に、慣れと惰性と君への憎悪と、そして、この場所の居心地の良さから逃れられないまま、僕はここにいることを、君は僕をここにいさせることを選択するんだろう。あのとき、彼女に別れを告げた時と同じように。
「わたしは、あなたを、愛してません。わたしは誰も愛しません。わたしにあなたは必要ありません。――以上。これが答え。これ以上わたしから伝えることなんて、何もない」
 そう、告げて。君はもう一度だけ僕に視線を走らせて、そしてそのままさっさと教室を出ていこうとする。その背中に声をかける気力は、僕にも、彼にも無い。今さら僕が君にかける言葉なんて、あるわけもないし、彼もまた、あまりにも疲れ切っていた。やがて君は扉を開けて廊下に出て、そのまま姿を消した。後にはただ、敗残兵にも似た僕らだけが残された。
 おいおい、と僕は思った。おいおい、こういうのはちょっと酷すぎるんじゃないか、と。
「ねえ」
 ため息をつく僕に、彼が焦燥しきった様子で声をかけた。
「あそこまで言わなくても良いと思わないか?」
 余りにも疲れていて、打ちのめされていて、先輩である僕に敬語を使う体力さえも残されていないらしい。まあ、別に良い。人間的な格で言うなら、僕なんかよりも彼の方がよっぽど上なわけだし。
「……よく分からないけど、機嫌が悪かったみたいだね」
 とりあえず、そう答えておいた。実際のところは分からない。だけど、そういう風に受け止めておくことが、僕にとっても彼にとっても一番楽なやり方だと想ったから。
「そうかな」
「そうだよ」
 互いに言い合って、図ったようなタイミングで、同時にため息を吐いた。その様子が妙に可笑しくて、彼と二人、どこか諦めに満ちた表情で笑い合う。そう、お互いに色々なものを諦めなくてはならないらしい。彼は君を、僕は彼女を。……いや、まあ、彼女のことは、もう過ぎたことだけど。
「でもさ」
 と彼は言った。
「僕を愛していないって言うのなら、なんで、僕と、その――」
 口ごもる彼に、かぶりを振って応えながら、
「わからないよ。……そんなのって、誰にも分からない」
 僕はそう言った。そうだ。君が考えることなんて、僕にも彼にも誰にも分からない。君にしか分からない。君が言ったことだ。他人のことなんて理解できない。他人の気持ちなんて分からない。僕に知覚出来るのは僕の脳内のことだけで、それ以上の何事を知ることも出来ない。それは誰だって同じで、誰にも他人を理解する事は出来ない。
 つまりはこういうことだ。よく、分からない。



(7)

 彼を残して教室を出ようとしたとき、背後から、どこか白けてしまっているようにも感じられる声が投げかけられた。
「ねえ」
「ん?」
 振り返らないで、言葉少なに応える。
「けっきょくのところ、あんたたちは――一体、何なんだ?」
 そんなこと、僕に言い尽くせるものか。主人を憎みながらも離れられない奴隷に、奴隷に依存しきった主人。くだらない例えを使えばいくらかは説明できるかもしれない。だけど、君が言ったように、あらゆる感情も、知識も、言葉という媒体に乗せた途端に劣化してしまう。だから僕たちは、世界をそのまま語ることが出来ない。自分が認識している世界を、事情を、誰かに完全に伝えることなんて出来ない。だったらこの際、最初から情報を限界まで殺ぎ落として、一番シンプルな核の部分だけを伝えるようにするしかないじゃないか。
 だから、僕はこう答えた。

「僕たちは、きょうだいだよ」



(8)


正面玄関の下駄箱のところで、君が壁に寄りかかって立っていた。何をしているのかなんて聞くほど、僕の体力は有り余ってはいない。ただ軽く手を振って、
「お待たせ」
 そう声をかけるくらいで精一杯だ。
 君が肯くのを気配で感じながら、時計を見てみれば、いつのまにか午後の七時にもなろうとしていた。太陽はほぼ沈みきり、風には夜の香りが混じり始めている。
「早く帰ろ。晩ご飯の用意しないと」
 急かすように言って、僕が靴を履き替えるのを待たずに歩き出す君。慌てて靴ひもを結んでその後を追いかけながら、ついでとばかりに彼の疑問を(いや、正直な話、それは僕にとっての疑問でもあるのだ)解消してみることにした。
「ねえ」
「なに、お兄ちゃん」
 玄関を抜けたところで立ち止まり、君はこちらへと振り返る。いつもみたいに僕の眼を覗き込まれる前に、こちらの方から君の目の中にいる僕を見つけだして、そして、僕自身に向かって問いかけた。
「良いヤツじゃないか、彼」
「……そうだね」
 微かに暗い声色で、君は答える。
「あんな風に言わなくても良かったんじゃないか?」
「でも、本音だから」
「本音、ね。だったら――」
 唇を舌で湿らせて、いよいよ核心をつく。
「なんで、セックスしたのか、でしょ?」
 ……先に言われた。いや、だからどうってわけでもないのだけど、なんとなく敗北感を覚えてしまうのは、僕の精神年齢が低いからだろうか? ともあれ、僕は君の言葉に首を縦に振ってみせた。
「彼も、僕もそれを疑問に思ってる。教えてもらえないと夜も眠れない」
「だったら昼間寝れば良いじゃない」
「……夜も、昼も眠れない。朝だって無理だ。知ってるか? 人間って七日間以上寝ないで過ごすと、目の下の隈が瞼にも出来るようになるんだ。君は僕にパンダのコスプレをさせたいのか?」
 僕の軽口に、君は眉を寄せて苦く笑う。
「ちょっと見たいかも」
「やめてくれよ。僕は笹なんて食べたくない……で? 結局のところ、どうなんだ?」
 もう一度問いかける。
 君は苦笑を深めて、肩をすくめながら小さく肯いてみせた。はいはい、仕方ないわね、という声が誰の耳にも聞こえるであろう仕草。
「お兄ちゃんがね、人を好きになったから」
「……は?」
 あまりにも唐突な言葉に、思わず間抜けな声が漏れた。そんな僕の様子を、下から睨め上げるようにして見つめながら、君は言い募る。
「お兄ちゃんに好きな人が出来て、それをわたしに伝えた。あの時ね、わたし、怒ったりとか焼き餅妬いたりとか悲しんだりとか、そういうのは全然なかったんだけど」
 それはそれで、どこかやるせない。まあ別に良いけど。
「……ただね、すごく驚いたんだ。こんな場所にいるお兄ちゃんにも、どこにも行けないはずのお兄ちゃんにも、人を好きになることが出来るんだって。わたしっていうモノを抱えて、それだけで精一杯のはずなのに、それでも恋が出来るんだって。それが――すごく、不思議だった」
 鞄の持ち手を強く握りしめて、つま先で床を何度か叩いて。そうやって頭の中の何かを整理してから、君はさらに言葉を重ねる。
「だから、わたしも試してみようと思った。お兄ちゃんに出来るなら、わたしにも出来るんじゃないかって。そう思った。そんな時にたまたま彼と話をする機会があって――それで、色々試してみてるうちに、ああいうことになった」
「……なるほど、ね。じゃあ君は、彼を好きになれるように努力はしてみたってわけだ」
「うん」
 でも駄目だった、と、君は泣き笑いみたいな表情を浮かべて、そう呟いた。
 ……まただ。またですよ、神様。また僕は君にこんな顔をさせてしまいました。
 ねえ神様、やっぱり今回も、こんな時にどんな顔をしたら良いのかなんて、教えてはくださらないんですよね? どこにも行けない僕たちを嘲笑うだけで、貴方は何もしてくださらないんですよね。……いや、別に貴方を責めてるわけじゃないんです。ただ、ね。



 神は僕らに何もしてはくれないのだから。
 だったら、僕らが何をしようと、神が何かを言う資格なんて、僕らを責める資格なんて、存在しないのではないか、と。
 そんなことを思いながら、僕は君の元まで歩み寄り、白い夏物の制服の肩を抱き寄せて、そして、唇を君のそれと重ねた。もちろんこれは愛とか恋なんてものではなくて、ただ、君の瞳の中にしか存在しない僕と、僕の瞳の中にしか存在しない君が、余りにも可哀相だったので。
 互いの瞳の中以外の、どこにも行けない君と僕が、あまりにも寂しそうだったので。



 だから僕は君を抱く。
 僕は此処にいる、なんてことを、誰にともなく囁きかけながら。

















 ――ところで神様。醒めない夢は、本当に無いのですか? 死者は、夢を見ないのですか?




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