あなたたちに似ようとしたのは、人恋しくてたまらなかったから


#僕の話



「好き、ね。ふうん」
 気の抜けたような声で君は言う。
 好き。それは僕の言葉だ。
 好き。ほんの数十秒前に伝えた僕の気持ち。
 好き。好きです。愛しています。ずっと一緒にいたいんです。
 精一杯の思いの丈をぶつけた僕に対し、君は壁に背中を預けたままの姿勢で、
「好きですか、そうですか。はあ、なるほどー」
 ただただ僕の言葉を繰り返すのみだ。
 ……僕には君の気持ちなんて分からないから。だから今、君がぼんやりとした顔で阿呆みたいに同じ言葉を繰り返す意味も分からないし、その行動が驚きから出たモノなのか嫌悪から出たモノなのか、それとも単に困惑しているだけなのか、あるいはそれ以外の理由があるのか――、なんてことを推察するのも不可能だ。そしてもちろん、僕の言葉に君がどう応えてくれるのか、なんて分かるはずもない。だけど、それでもひとつだけ言えることがある。
 もしも僕が君の立場なら――こんな馬鹿げた告白に、付き合ってなんてやらない。
「ねえ」
 不意に投げかけられた声。いつの間にか君は、宙を彷徨わせていた視線を僕に向けていた。奥二重のまぶた。ややつり上がり気味の目尻。底の見えない海みたいな、酷く深みのある漆黒の瞳。僕の心を覗き込んで、そこのある君自身の姿を――僕が思い描いた、君のカリカチュアを探すような瞳。そんな君の視線に晒されるたびに、僕はいつもいつも同じ事を思う。やっぱり君は母親似だ、と。
「……なに?」
 まるであの人の面影から逃げるみたいに目を伏せて、少し汚れた板張りの床に向かって僕は応えた。弱虫。そう嘲笑ったのは君だろうか。それとも君の母親か? ……いや、分かってる。ひどく下らないことを考えているのはよく分かってる。誰も僕を嗤ってなんかいない。そんなのは僕の被害妄想に過ぎない。君は僕を傷つけない。傷つけたいと思ったことも無いだろう。僕には君の気持ちなんて分からないから、絶対にそうだとは言い切れないけれど。
 そして君の母親が僕を傷つけることもあり得ない。こっちは言い切れる。絶対に不可能だ。何故なら君の母親は一個の肉体と独立した知能を持った生体としてはもう存在していないからだ。死んだ。君の母親は、三年前の夏に君が住むマンションの、自室のベランダから飛び降りて死んだ。君を残して去っていった。だから君の母親が僕を傷つける事はない。過去に傷つけられたことは何度もあったし、そしてその傷のうちのいくつかは、まだかさぶたにもならずに残っていて、時々派手に血を流して僕を苦しめてくれるけれど、そんなのって結局、僕が弱いってことの証明以外の何者でもない。
 そう。僕はすごく弱い。笑ってしまうほど弱い。
 だから――。

「その『好き』って、いったいどんな気持ちなんだろう?」
 
 そう訊ねたのは――君なのか、それとも僕なのか。
 そんな事さえも分からない。
 ……やっぱり、弱い。



 君の母親が死んだ日のことは、今でもときどき夢に見る。
 あの日は確か、台風の影響で県内に大雨洪水波浪警報(大盤振る舞いだ)が発令されて、僕たちが通っていた小学校は休校になっていた。おかげで僕は昼過ぎまでのんびりと寝ていることが出来たし、君もまた、同じマンションに住んでいる同級生のところへ遊びに行くことが出来た。
 台風は前日の深夜には九州南部に上陸していて、僕や君の住む街にも豪雨を降らせていた。今現在ごく一般的な高校生である僕は、もちろんその頃には、ごく一般的な小学生だった。そして日本全国のごく一般的な同類たちと同じように、激しい雨が地面を叩く音や、強い風がベランダに置いた鉢植えを揺らす音に興奮し、明日は学校が休みになるかもしれないという期待に興奮し、だけど明日には台風はどこかに消えてしまって、学校にはいつも通り行かなくてはならないかもしれないという不安にさえも興奮していた。その結果、僕は翌朝、いつもだったら目を覚ましているはずの時間になっても起きられなかった。
 僕が目を覚ましたときには、もう雨も小降りになっていた。眠りすぎた時につきものの、口の中が妙にねばつく感触に顔をしかめながら、僕はだらけた動作で布団から身を起こした。僕の部屋に敷いてある布団は、ついさきほどまで僕が寝ていた布団だけだった。いつもは僕の隣にぴったりとくっつけて敷いてあるもうひとつの布団は、その時には綺麗に畳まれて部屋の隅にきちんと片づけられいた。なんとなく置いてきぼりをくらったような気分になりながら(自業自得以外の何者でもない)、僕もまた自分の布団を畳んで、子猫の模様のカバーがかけられた布団の上に重ねて置いた。
 派手な欠伸をかましながら部屋を出た僕は、その足で居間に向かった。磨りガラスが格子状にはめ込まれたドアを開けながら、眠気にまみれた声で言う。
「おはよ――」
 だけど、返事はない。当たり前だ。部屋の中には誰もいないのだから。曇り空のせいだろう、居間には昼間から明かりが灯されていた。誰も見ていないというのに点けっぱなしにされているテレビのなかでは、気象予報士の男性が、台風は北上して朝鮮半島方面に向かう進路を取ったことを告げていた。僕はソファの上に置かれていたリモコンを取って、そのままテレビの電源を落とした。電気は節約しないといけない。
 ともあれ――みんなは何処に行ってしまったんだろうか。僕ひとりをほったらかしにして、何処かに買い物にでも出かけたのか? ソファに腰を下ろしながら、僕は途方に暮れた。さて、独りでどうやって暇を潰せば良いのだろう。平日の昼間のテレビ番組が信じられないくらいにつまらない事は、この間風邪を引いて学校を休んだ時に学習していたし、かといって読みたい本があるわけでもない。家にあるテレビゲームにはだいぶ飽きてしまっていたし、友達と遊ぼうにも外は雨だ。こういうのって、ちょっと困ってしまう。いっそのこと、もう一度眠ってしまおうか。だけど今寝ると、今度は夜眠れなくなってしまう。
「あー。どうしよっかなぁ」
 誰に聞かせるともなく、呟く。声を出した拍子に、口の中がねばついていることを思い出した。とりあえず何か飲むことにしようか。そう思った僕は、再びソファから立ち上がって、今度は台所を目指して歩き出した。その途中、ふと、何の気無しに視線を送ったガラス戸の向こうに――小降りとはいえ雨に濡れるベランダに、人影があることに気づいた。
「……あ、れ?」
 その人影は女性の姿をしていた。その人影は、少し癖のある髪を首の後ろで束ねていた。その人影は、僕に背を向けて立っていた。その人影は、雨に濡れながら、魂が抜けてしまったかのように立ち尽くしていた。その人影は――いや、もう良い。もう沢山だ。そんなにだらだらと描写を続けたって仕方がない。その人影を形容したいなら、ただ一言を紡ぐだけで良い。そう。その人影は――君の、母親だった。
「なに、してるの……?」
 よく知っている女性のただならぬ様子に、僕は半ば怯えながら声をかけてみた。その声はか細く震えていて、彼女の耳に届いているのかさえも怪しいものだった。
 ……そうだ。僕は怯えていた。僕の声に何の反応も返さないままで、じっと立ち尽くす彼女の姿は、普段見ていたものとはまったく違っていた。理由は分からない。理解も知解も出来ない。なにがどうなっているのかなんてさっぱり分からない。ただ――何かが失われようとしている。その何かが一体どういうものなのかなんて、当時の僕にはさっぱり分からなかったし、今の僕にも分かっているとは思えない。だけど、分からないなら分からないなりに行動していれば、ただ怯え、ただ思考を停止することを拒んでいれば――きっと、もう少しマシな『今』が有ったはずだ、と。あまりマシでない今の僕はそう信じている。そしてたぶん、それこそが僕の弱さなのだ、とも。
 話を戻そう。君の母親の姿を阿呆みたいに見つめていた僕は、不意に彼女が体を動かしたことに気づいた。後ろから見ただけでははっきりとは分からなかったけれど、どうやら彼女は視線を下に向けたらしい。頭が会釈するみたいに前方に動く様子で、そうと知れた。彼女は何を見ているのだろう。そんな僕の疑問は、次の瞬間には氷解していた。声が聞こえたから。声。笑い声。本当に楽しそうな、心の底から輝きとともに湧きだしてきているような、そんな笑い声。君の――笑い声だ。君の母親は、君を見ていた。声の響き具合から考えて、君がマンションの外、君の母親から見てほぼ真下の道路当たりにいることが分かる。何をしているのかは知らないけれど、とにかく楽しそうに笑っている君の姿を見つめながら(これは推測に過ぎない。繰り返しになるけれど、僕はこのとき、君の母親の顔を見ていないのだ)、彼女はまたしばらく、その場で微動だにしなかった。なんだか無性に暴れ出したくなるような、胸を掻きむしりたくなるような種類の沈黙が、君の母親と、ついでのように僕とを包む。ごく一般的な小学生だった僕に、そんな重い空気に耐えることが出来るわけもなく、もう一度声をかけてみようと口を開いた瞬間――。

「――――っ!!」

 君の母親が、何かに縋り付くみたいな声で、君の名前を叫んだ。

 そして、ベランダに置かれた鉢植え――君が大切に育てていた花の苗。なんていう名前だっけ――を足場にして、一気に手すりを跨ぎ越して――。
「……ちょ、待っ――!?」
 今頃になってようやく事態の深刻さに気づいた僕が、慌てて駆けだしてももう遅い。僕はガラス戸を開け、ベランダに飛び込んだ(いや、正確には飛び出した、だろうか?)。だけどその時には、君の母親は、もう既にこの世の人ではなくなっていた。

 さて。
 君はあの瞬間の話をしてくれたことがないから、ここから推測の話になるのだけれど、あの時、君の母親がマンションの六階から飛び降りた時、君は多分、その真下にいたんだろう。建物の下で、同じマンションに住んでいる同級生の子と一緒に遊んでいた君は、君の母親が呼ぶのを聞いて、はっと目を上げ、そして、自分の方に――否、『自分めがけて』落ちてくる、母親の姿を見てしまった。立ちすくむ君。落ちてくる母。そのままぶつかっていれば、君も君の母親も、おそらく命は無かっただろう。だけど幸か不幸か――僕にとっては幸、君の母親にとっては不幸――彼女はすんでのところで君には衝突せず、その代わり、頭から地面に叩きつけられた。鈍い音。倒れた母。あり得ない角度に曲がった首。割れた頭。流れだしてくる血液。そこに混じった肉片。君の友達が悲鳴を上げる。その声に我に返った君は、同じように悲鳴を上げるか、卒倒するか、思考を停止して呆然と立ち尽くすかの選択を迫られ、そして何故か、再び視線を上に向けた。
 君の母親が墜ちてきた方向。君が住むマンションの六階。君が住む部屋の有る場所。
 そんな場所を見上げた君の目に映ったのは、君の部屋のベランダに立つ、僕の姿だった。

 あの時の君の姿を、僕は多分死ぬまで忘れられないだろう。
 君は知らない人を見るような目で僕を見て、次に、地面に横たわった君の母親の死体を見て、そしてまた僕を見て、また母を見て、三回目に僕を見たときには、僕に依存しきった、いつも通りの君の瞳に戻っていて。そして君は、ぶんぶんと僕に向かって手を振りながら、悪戯っぽい笑顔を浮かべて、

「お兄ちゃんの人殺しー」

 そんなことを大声で言って。そのまま、ゼンマイの切れたからくり人形みたいに崩れ落ちた。



 そうだ。僕には君の気持ちなんて分からないから、今はどう考えているのか知らないけれど。
 あのとき君は、僕を人殺しと呼んだ。
 僕が君の母親を殺した、と。君の母親――いや、これももう良い。どんな言い回しをしようと、どれだけ自分を彼女から引き離して描写しようと、何も変わらない。ここいらでぶっちゃけてみようじゃないか。そう。そうだとも。あの日、僕の目の前から消え、そして君の目の前に墜ちた彼女は……僕の母親だ。


 君は僕を親殺しと認識した。それがあのとき起こったことの全て。あのときからの僕の全て。
 僕が見る、悪夢の全てだ。







 茜色に染まる通学路を、二人並んで歩く。
 梅雨入りしたばかりの頃。空はどんよりとした陰気な雲に覆われ、大気は湿っぽさを増し始めている。雨の予感に葉を震わせる、名前も知らない街路樹をぼんやりと見やる僕は無言。その隣、お互いの呼吸する音が微かに聞こえるくらいの位置を行く君もまた無言。
 口が利けないわけじゃない。話したくないわけじゃない。語るべきことは溢れかえるほどあるし、かけてもらいたい言葉だっていくらでも思い浮かぶ。なんだったら、ここで一曲披露したって良い。朗々と詩歌を奏でてやったって構わない――。
 そう、構わないのだけど。大した意味はないけれど、ただなんとなく、今この場所でのこの雰囲気に、もう少し浸っていたかった。
 距離にして約1.4キロメートル。時間にしておよそ30分。誰もいない通学路、君と僕のためだけに敷かれているとさえ思える道のりを、こうして歩いていたかった。
 並木道をくぐり抜け、川べりの砂利道を進み、橋の手前で小径に入り、煙草屋の角を左に曲がって、分譲住宅たちに挟まれた、緩い坂道を登る。
 そして帰り着いた僕らが住むマンション。
 あの日、君と僕の母親が墜ちた場所のすぐ側を通り、建物の中に入り、そしてエレベータの前まで歩いた僕は、昇りのボタンを押しながら、ぽつりと呟いた。
 僕の後ろに立って、ぼんやりと僕の背中でも眺めているであろう君に向かって。
「……ねえ」
「なに、お兄ちゃん?」
「僕は――」
 そこで一旦言葉を切る。そして、ゆっくりと振り返りながら、
「僕は、君を愛しているんだろうか?」
 夕飯の献立を尋ねるような気軽さで、そんなことを問いかけてみた。
 ――それはたぶん、君に対しての問いかけではない。訊ねたのは僕で、答えるのも僕であるべき類の質問だ。僕は君を愛しているのか。僕は君以外の誰かを愛せるのか。今までずっと考えてきて、今までずっと答えの出なかった問い。否。答えは出ているのかもしれない。あるいはそれは問いにすらなっていないのかもしれない。訊ねる意味さえもないくらいに、明白なことなのかもしれない。全てはあからさまなのに、目の前を覆い尽くすくらいに、真実とやらは僕の前にその姿をさらけ出しているのに――それでも僕は、目を閉じて耳を塞いでうずくまって、逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて――。
 ああ。やっぱり僕は弱い。弱いから、結局は判断を君にゆだねようとしてしまう。
 そんな僕の心を見透かすように、君は艶っぽく微笑みながら、一言。
「――さあ、どうなんだろ?」
 わたしにはわからないよ、と。
 とても優しい目で僕を見つめて、そう答えた。




「ねえ」
 さっさと鍵を開けて部屋に入ろうとする僕に向かって、君は背後から声をかけてきた。対する僕はろくに返事もしないで、そのまま玄関に足を踏み入れ、靴を脱ぎ、短い廊下を抜けて居間に向かう。君も小走りで後を追う。
「ねえ」
 居間の電気を点ける。テーブルの上には微妙な厚みの封筒と、短い文章の記されたメモ用紙。
『出張。大阪。週末まで。いつも通りに』
 必要最低限のことしか書かれていないメモを、くしゃりと握りつぶしてゴミ箱に棄てる。メモのすぐ横に置かれていた封筒には、それこそいつも通りに幾枚かの万札が収められていた。小さく嘆息しながらも、僕は何処かほっとしている。
 ――母さんが死んでから、父さんはそれまで以上に仕事に精を出すようになった。特に生活に困っていたわけじゃない。ただ、たぶん、何か縋るものが欲しかったんだろう。あるいはもっと単純に、僕たちと顔を合わせるのが億劫になっただけの話かも知れない。そのどちらもが大いにありえる可能性だったし、どちらだったとしても、僕には父さんを責めるつもりも、その資格もない。
 そんな親子のすれ違いとは逆に、君はあれ以来、僕の側から離れないようになった。昔から兄妹仲の悪い方では無かったけれど、母さんが死んでからは、もうそういう微笑ましい話には収まらないことになってきた。どこに行くのも一緒(コンビニに行くときにさえ、君は僕についてきたがる)。どこに行かないのも一緒(君が離れることを嫌がるから、僕は修学旅行にも行けなかった)。何をするにも一緒(男子しか参加出来ないから、という理由で、僕はサッカー部に入ることが出来なかった。もちろん君が一緒に入部したがったからだ)。何をしないのも一緒(僕が宿題を忘れた時には、何故か君も忘れ物をしている。理由は――言うまでもない)。僕から離れたら死んでしまうかのように、或いは、君から離れたら僕が死ぬ、というかのように。まるで隷属するように、使役するように、君は僕と共にあった。好きだとか嫌いだとか、そういう以前の問題。それで当たり前だと言わんばかりの君の態度。そんな君に疲れた僕が、他の誰かに惹かれたとしても、無理もない話だと思わないか?
「――ねえってば」
 なんだか動くのも億劫になってきて、僕は封筒をテーブルの上に放ると、そのままソファに座り込んだ。体が沈み込み、その重みをバネが押し返す感触を楽しみながら、ようやく僕は君の声に応えた。
「なに?」
 やっとのことで得られた僕の言葉に、君は少しだけ安堵の表情を浮かべながら、だけど何処か硬さの残る声音で、こんなことを聞いてきた。
「お兄ちゃんが好きになった人って、わたしより綺麗?」
「どうかな」
 どうとでもとれる答えを返す僕に、君は重ねて問う。
「わたしより家事、上手い?」
「さあ」
「わたしより優しい?」
「どうだろ」
「わたしより頭良い?」
「さあ」
「わたしより色っぽい?」
「さあ……」
「わたしより――」
「もう良いよ」
 他愛のない質問を繰り返す君の態度を、子供っぽい嫉妬から来たものだと受け取った僕は、俯いたままの姿勢で、君の方を見ずに言葉を遮った。こういうのは嫌いだ。こういうのは君らしくない。そう思ったのは――やっぱり、僕が弱く、愚かだからなのかもしれない。
「こっち、向いてよ」
 その声に、はっと顔を上げた僕の視線が、君のそれにぶつかる。あのときと同じ眼。母さんと同じ眼。僕を探り、僕の中の君を見つめる。そんな君の視線に耐えられなくて、またも目を逸らそうとする僕に、君は優しげな、だけど有無を言わさぬ口調で、
「こっちを見なさい」
 と、命じた。君は僕を見つめたまま、僕に君を見つめさせたまま、ゆっくりとした動作でソファに向かって近づいてくる。一歩一歩を踏みしめるようなその歩き方が、なんとなく僕の不安を誘うけれど、君はそんな事に頓着しない。やがて僕の目前まで近づいた君は、腕を伸ばし、僕の体を覆うようにソファの背に両手をついた。吐息が、お互いの顔に触れる距離。相手の顔以外には何も見えないくらいの近さ。僕の視界は、世界は、どこまでも限定され、狭められ、もう此処には君以外の何者も存在しない。そんな、閉じた世界にただひとりで在る君は、落ち着いた声音で、またも問うた。
「その人のことが、わたしよりも大切? わたしよりも――好き?」
 答えられるわけがない。君は君で、彼女は彼女だ。順位をつけて比べられるようなものじゃない。僕は君から視線をそらせないまま(いや、逸らしたところで僕の視界から君が消えることはない。もしも君の姿を見たくないというのなら、眼を閉じるしか方法は残されていないだろう)、僕はもごもごと、そんなお定まりの答えを返した。もちろん――君は納得しない。当たり前だ。だって、僕自身さえも納得出来ていないのだから。
 君はほんの少しだけ息を止めて、わざとらしく吐き出してみせた。嘆息。呆れている。まるでいくら教えても、言っている内容をまったく理解しようとしない教え子を見る教師のように。いくら言い聞かせても、言いつけた内容をまったく守ろうとしない子供を見る母親のように。僕には君の気持ちなんて分からないから、君が何を考えているのかなんて、これっぽっちも理解出来ないけれど。だけど、ここであえて推測させてもらうならば――君は、僕が僕に対して嘘をつくことに、そして頑なにその嘘を守り通し、眼を逸らして視界から追い払う努力をする事に、分かり切った事実を馬鹿みたく否定していることに――心の底から呆れてかえっていた。
「ねえ、お兄ちゃん」
 君は、整った眉をひそめながら、乾ききった声で言う。
「ねえ、お兄ちゃんの言う『好き』って、どういう気持ちなんだろう?」
 言いながら、君は静かに顔を寄せてくる。
「優しいから好き? 話が合うから好き? 胸が大きいから好き? 親切にしてくれるから好き? 頭が良いから好き? それとも馬鹿だから好き? 陰のあるところが好き? 無垢なところが好き? セックスをさせてくれるから好き? 否定しないから好き? 肯定もしないから好き? ――お兄ちゃんのことを、お兄ちゃんの罪を知らないから、好き?」
 君の鼻が僕の額に触れ、そのまま頬ずりをするように僕の顔をなぞってゆるゆると下がってくる。目と目が、物理的な意味合いでもって触れそうになって、僕は慌てて瞼を下ろした。そんな僕の仕草に、君は小さく笑い声を上げて、さらに言葉を紡ぐ。
「駄目だよ、お兄ちゃん。忘れちゃ駄目。目を逸らしちゃ駄目。そんなことをしたって何にもならないって分かってる、ほんとに自分を否定しちゃ駄目。ねえ、覚えてるでしょ? お兄ちゃんは、わたしのお母さんを殺したんだよ? わたしの大切な人を殺しちゃったんだよ? 誰よりも好きで、誰よりも大事で、他の全てを棄てたってそれだけは離せない――そんな人を、殺しちゃったんだよ?」
「あれは――僕じゃない」
 掠れた声で言いながらも、僕はこんな台詞は無意味だと気づいていた。何を言おうと、何を示そうと、たとえ今からあのときの夏にタイムスリップして、君の母親が死のうとしている瞬間を、僕の視点から見せたとしても、たぶん君は信じない。君の世界は、今というかたちで完全に固定されて、完成されて、凍結されている。そんな僕の考えを裏付けるように、
「そうかもね。だけど、それがどうしたっていうんだろう? ねえ、お兄ちゃん。わたしはお兄ちゃんがお母さんを殺したと思ってる。大事なのは、心に留めるべきなのは、その一点だけなんだよ。お兄ちゃんが何を言ったって、本当の事を言ったって、駄目。わたしは信じない。私が信じてるのは、お兄ちゃんが人殺しだってこと。お兄ちゃんは罪を犯したってこと。お兄ちゃんは罪を償いきるまで――私が飽きるまで、何処にも行けないってこと。たとえそれが嘘だったとしても――ねえ、お兄ちゃん、嘘の方が真実よりも正しいことって、あると思わない?」
 君はまた、くすりと微笑ってみせて、
「だから――お兄ちゃんの『好き』は、何処かに棄てちゃいなさい」
 ほんの少しの躊躇も見せず、唇どうしが触れて、重なり、解け合った。
 そして、馬鹿げたことだけれども――それでも良いと思ってしまう、心底愚かな僕がいた。



 何回も何回も何回も繰り返し言ってきたけれど、そして今もまた同じ台詞を繰り返すわけだけれども――やはり、僕は弱くて愚かだ。自家撞着とも卑下とも違う、形をもって此処にある、実存としての弱さ、愚かさ。そんなものに押しつぶされそうになりながらも、僕は君から離れられない。考えるまでもなく、僕が君の母親を殺した、なんてことは君の思い違いに過ぎない。あれは誰がどう見ても君の母親による自殺行為で、僕は母親が死ぬところを目撃してしまった可哀相な子供でしかない。君がどう思おうと、僕が彼女を殺していないのは事実だ。
 だけど。だけど、君が言ったように――真実よりも正しい嘘が存在することもまた、事実だ。白状してしまおう。僕は君から離れられない。否、離れたくない。好きだと思ったことは無い。愛しているだなんて、口が裂けても言いたくない。それどころか、僕をこんな風にしてしまった君を憎んですらいる。そう。憎んでいる。
 僕は全力で君を憎む。
 僕の全てを、僕の身体精神意義存在の100パーセントをもって、君を憎む。
 僕の腕は君をひねり潰すためにある。
 僕の脚は君を追いつめるためにある。
 僕の眼は君を睨み付けるためにある。
 僕の唇は君を罵るためにある。
 僕の耳は、鼻は、指は、骨は、肉は、血は、心は――。
 君のためだけに存在する。
 君を憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎み抜くためだけに。
 そう。実に悔しい話だけれども――僕は、君のために生きているのだ。

「ここで待ってて」
 自分の教室の入り口で、背中越しに声をかけた。
「わたしも行くよ」
 どこかうさんくさげな目で僕を値踏みしながら答える君に、僕は軽く苦笑してみせながら、
「大丈夫だよ。独りでやれる。すぐに終わるよ」
 少しばかり早い口調で告げた。その言葉に、君はしばらく無言で僕の顔を見つめていたけれど、やがて何かの折り合いがついたのか、唇を吊り上げ、笑みを形作って頷いた。
「早く、ね」
「分かってる。僕は何処にも行かない」
 そう、僕は何処にも行けない。僕たちは、何処にも行けないのだ。

「こないだの、話なんだけど」
 教室に入り、彼女以外には誰もいないことを確認してから、僕は言った。
 窓際の席に座る彼女は、長い髪を一房手にとって、指先で弄びながら、ちらりと僕に視線を送った。教室の端と端。対角線で結ばれた位置で、僕たちは見つめあう。
「それが、呼び出した理由?」
「そう」
 訝しむような目で僕を見ながら言う彼女に、僕は素直に頷いてみせた。
 そして、うしろめたさが表情に表れないように苦心しながら、一息に告げる。
「こないだの『好き』ってアレ、無かったことにしてもらえないかな」



 彼女は僕を責めなかった。泣きもしなければ怒りもせず、理由を問うことさえもしなかった。僕には君の気持ちなんて分からないから、君が何を考えているのかなんてこれっぽっちも理解できない。同じように、彼女の気持ちを察する、なんてことも出来はしない。だからただ、僕は静かに立ち上がり鞄を手にとってここから去ろうとする彼女の後ろ姿を見送ることしか出来なかったし、教室を出る際に、視線を廊下の向こう、逆側の扉に送ったあと、彼女が一度だけ振り返って、
「やっぱり変だよ、君たち」
 そんな風に言うのにも、気の利いた答えを返せはしなかった。



 僕たちは変なのだそうだ。なるほど、と納得してみせる必要はない。何故ならそんなこと、とうの昔から分かり切っていることだからだ。僕たち、というのが僕ら兄妹のことを指しているのだとすれば、だけれど。確かに僕らの関係はおかしい。色んなモノが色んな風にこじれあって、色んな感情のうねりを巻き起こしている。そんな様を外から客観的に見てみれば、おかしいだなんて感想が出てくるのは至極当然のことだろう。だけど、そのうねりの内側にいる僕からしてみれば、僕らの関係というのはとてもシンプルなものに過ぎないのだ。君が飽きるまで、僕は君から離れられない。僕が離れるまで、君が僕に飽きることはない。僕たちはここに居て、このまま二人でいて、何かが変わることも何かを得ることもなく生き続ける。
 教室を出て、廊下で待っている君の方へと歩きながら、僕は思う。




 僕たちは何処にも行けないのだ、と。




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